「帰ったら、アルバム作ろうね」
新婚旅行の最後の日の夕方、沙織はそう言って、石畳の上で振り返った。夕暮れの光が、古い建物の壁を蜂蜜の色に染めていた。旅行のあいだに撮った写真は、二人で作った共有アルバムに、沙織のスマホから自動で上がるようにしてあった。僕は「撮りすぎだよ」と笑い、沙織も笑った。笑うと、少しだけ欠けた左の前歯が見えた。子どものころ、ブランコから落ちて欠けたのだと、沙織は恥ずかしがって、いつも口元を手で隠した。
沙織には、僕しか知らないことが、ほかにも二つあった。
ひとつは、左耳の後ろの小さな傷跡。付き合い始めたころ、旅行先の階段で転んで、三針縫った跡だ。髪を下ろしていると見えない。もうひとつは、二人だけの合図。目を閉じて、ゆっくり三回うなずいて、最後に一度だけ首をかしげる。人前で言えないとき、「大丈夫だよ」と伝えるために、沙織が考えたものだった。
通りの角に、小さなブティックがあった。
「ちょっと見てきていい? 五分だけ。あ、その前に一枚撮って」
沙織は自分のスマホを僕に渡して、ショーウインドウの前でポーズをとった。僕が撮った写真を確かめると、満足そうにスマホを受け取って、店に入っていった。店員に案内されて奥の試着室へ向かい、カーテンが閉まるところまで、僕はショーウインドウ越しに見ていた。
十分たった。二十分たった。
三十分たって、僕は店に入った。
「妻が、試着室にいるはずなんですが」
店員は、不思議そうな顔をした。
「今日は、あなた以外のお客様はいらしていません」
試着室は三つあった。三つとも空だった。窓もなく、裏口もなかった。床に、沙織が持っていた紙袋が落ちていた。それだけが、彼女がここにいた証拠だった。
警察が動いた。ホテルも、空港も、病院も調べられた。何も見つからなかった。沙織のスマホは電源が切れたまま、見つからなかった。共有アルバムへの写真も、僕がブティックの前で撮った一枚を最後に止まっていた。一年たち、二年たち、両親も友人も警察も、口には出さなくなった。僕だけが、休みのたびにあの国に通い、写真を見せて回った。
四年目の冬、内陸の古い町の安宿で、酔った男が言った。
「裏通りに、見世物がある。夜だけ開く。日本の女もいるって話だ」
その夜、僕は路地の奥の、看板もない建物に入った。
中は、酒と汗と、何かが腐ったような甘い匂いがした。薄暗い舞台に、檻がいくつも並んでいた。客たちは酒瓶を片手に、檻をのぞき込んでは笑っていた。僕は檻をひとつずつ見ていった。見たものを、ここに書くつもりはない。
一番奥の檻に、それはいた。
最初は、布をかぶせた丸い置物だと思った。客の一人が棒で布をめくった。
女だった。
肩から先がなかった。腰から下もなかった。切り口は丸く縫い縮められ、皮膚が巾着の口のように寄せられていた。縫い目のあいだから、黄色い汁がにじんでいた。胴体だけが、赤い布を敷いた台の上に、置物のように据えられていた。客たちは「ダルマ」と言って笑った。その言葉だけは、日本語だった。
女が顔を上げた。
虚ろだった目が、僕を見つけて、大きく見開かれた。涙が一気にあふれた。
それは、知らない男を見る目ではなかった。布をめくった客にも、笑っている客たちにも動かなかった目が、僕だけをとらえて離さなかった。
女の体が、台の上で前に傾いた。縫い縮められた肩の切り口が、びくびくと震えていた。そこにもう腕はないのに、こちらへ伸ばそうとしているのだとわかった。台がきしみ、女は前に倒れそうになって、それでも僕のほうへ体を傾け続けた。喉の奥から、ひゅう、ひゅう、と、空気の漏れるような音がした。名前を呼ぼうとしているような、短い音の繰り返しだった。
僕は、気づくと檻の前まで歩いていた。心臓の音が耳の中で鳴っていた。濡れた睫毛。少し垂れた目尻。泣くときに、眉の内側だけが先に持ち上がる癖。見たことがある、と体のどこかが先に言っていた。
周りの客たちが、何か言いながら、僕と女を見比べて笑っていた。
違う、と思った。思おうとした。頬はこけ、肌は灰色で、髪は伸び放題に絡まっていた。四年前の沙織と、目の前のものが、どうしても結びつかなかった。似ている人なら、いくらでもいる。この四年間、僕は何十回も、似ている人を見つけては、違ったのだ。
女の口が動いた。何かを言おうとしていた。声は出なかった。口の中に、舌がなかった。根元から切り取られた跡が、赤黒く盛り上がっていた。
その開いた口の、左の前歯が、少しだけ欠けていた。
僕は格子に顔を押しつけた。欠け方まで、同じだった。斜めに、小さく、三角に。笑うたびに沙織が手で隠していた、あの形だった。
それでも、まだ、違うと思いたかった。歯の欠けた女なんて、世界中にいる。
すると女は、ゆっくりと首を右に傾けた。
伸び放題の髪が流れて、左耳の後ろがあらわになった。小さな傷跡があった。白く盛り上がった線の両脇に、針の跡が三つずつ、点のように並んでいた。三針。僕が病院の待合室で、沙織の手を握って待っていた、あの夜の傷だった。
膝から力が抜けた。否定する理由が、ひとつずつ消えていった。
女は、僕がそれを見たのを確かめるように、しばらくそのままでいた。それから、目を閉じた。
ゆっくりと、三回うなずいた。最後に一度だけ、首をかしげた。
大丈夫だよ。
人前で言えないときの、二人だけの合図だった。世界中で、僕と沙織しか知らない合図だった。
僕は檻の格子をつかんで、沙織の名前を叫んだ。何度も叫んだ。「僕の妻だ」と、日本語でも、片言の英語でも叫んだ。客たちが振り返った。奥から男たちが出てきて、僕の腕をねじ上げた。殴られ、引きずられ、路地に放り出された。最後に見えたのは、檻の中の沙織の目だった。
翌朝、警察を連れて戻った。
路地も、角も、間違えるはずがなかった。けれど、そこには何もなかった。古い空き地に、雑草が生えているだけだった。近所の人間は、そんな建物は知らないと言った。何年も前から、ずっと空き地だと。
日本に帰ってから、僕は四年ぶりに、二人の共有アルバムを開いた。沙織が作りたがっていたアルバムを、今度こそ作ろうと思ったのだ。
写真は日付順に並んでいる。空港。ホテルの朝食。石畳の路地。ブティックの前で笑う沙織。四年間、そこで終わっていた。
その下に、一枚増えていた。
投稿者は、沙織だった。撮影日は、僕が見世物小屋に入った夜だった。四年間、電源が切れたままだった沙織のスマホが、あの夜、どこかで動いていたのだ。
薄暗い建物の中を、後ろから撮った写真だった。檻の格子にしがみつく男の背中が写っていた。僕だった。そして、格子の向こうの台の上に、沙織が写っていた。
沙織は、僕を見ていなかった。
カメラのほうを、つまり、僕のすぐ後ろに立っていた誰かのほうを、まっすぐに見ていた。
あの合図は、人前で言えないことを伝えるためのものだった。あのとき、沙織の前にいたのは、僕だけではなかったのだ。僕のすぐ後ろに、ずっと、もう一人いた。
だから沙織は、声の出ない口で叫ぶ代わりに、あの合図を選んだ。後ろの誰かには意味がわからず、僕にだけ伝わる合図を。
大丈夫だよ。私のことは、もういいから。騒がないで。振り返らないで。このまま、何も知らないふりをして帰って。
でも僕は、その意味に気づけなかった。格子にしがみついて、沙織の名前を叫び、「僕の妻だ」と叫んだ。
すぐ後ろにいた誰かは、それを全部聞いていたはずだ。檻の中の女が誰なのか。そして、僕が誰なのか。
共有アルバムは、消していない。消せなかった。毎晩、寝る前に開いて、写真が増えていないことを確かめている。
昨夜、一枚増えていた。
震える指で開いて、拡大した。
僕が住んでいるマンションの、エントランスの前だった。オートロックの扉に鍵を差し込もうとしている男の背中が写っていた。
僕だった。撮影時刻は、昨夜、僕が仕事から帰ってきた時刻と同じだった。すぐ後ろから撮られていた。あの見世物小屋の夜と、同じ距離、同じ角度で。
僕は、何も気づかなかった。
そして、思い出した。四年前、このアルバムは、ブティックの前で笑う沙織の写真で止まった。それが、沙織が消える前の、最後の一枚だった。
今、このアルバムのいちばん下にあるのは、僕の背中だ。
次にこのアルバムに上がる写真に、僕がどんな姿で写っているのか。それだけは、考えないようにしている。
この物語のもとになっただるま女の都市伝説、その起源と真相はこちら。
だるま女の都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

