だるま女
※この物語はフィクションです。
新婚旅行の最後の夜だった。
夫婦は異国の街を歩いていた。
石畳の道。
古い建物。
夕暮れの柔らかな光。
妻は上機嫌だった。
「ねえ、帰ったらアルバム作ろうね」
「写真撮りすぎだろ」
夫が笑う。
「だって楽しいんだもん」
妻も笑った。
どこにでもいる、ごく普通の新婚夫婦だった。
その数十分後に訪れる出来事など、二人は想像もしていなかった。
通りの角に、小さなブティックがあった。
ショーウインドウには鮮やかな服が並んでいる。
「あ、かわいい」
妻が立ち止まる。
「ちょっと見てきていい?」
「すぐ戻ってこいよ」
「五分だけ!」
そう言って妻は店へ入っていった。
夫は入口の近くで待つ。
妻は店員に案内され、奥の試着室へ向かう。
カーテンが閉じる。
その瞬間まで、夫は確かに見ていた。
十分が過ぎた。
二十分。
三十分。
妻は出てこない。
夫は不安になった。
店へ入る。
「すみません。妻が試着していると思うんですが」
店員は不思議そうな顔をした。
「奥様?」
「さっき入ったでしょう」
「いいえ」
「試着室に行ったんです」
「今日はあなた以外のお客様は来ていません」
夫は試着室へ向かう。
一つ目。
誰もいない。
二つ目。
誰もいない。
三つ目。
誰もいない。
狭い空間には着替えの跡すらなかった。
窓もない。
裏口もない。
逃げ道など存在しない。
それなのに妻だけが消えていた。
警察が動いた。
失踪事件として扱われた。
ホテルも空港も病院も調べられた。
だが手がかりは何一つ見つからない。
妻は消えた。
まるで世界から切り取られたかのように。
数年が過ぎた。
誰もが諦めた。
両親も。
友人も。
警察も。
だが夫だけは諦めなかった。
仕事の合間に情報を集めた。
海外へも何度も足を運んだ。
失踪者リストを調べ続けた。
妻は生きている。
理由はない。
ただそう信じていた。
ある日。
中国の奥地とも、東南アジアの辺境とも言われる町で、奇妙な噂を耳にする。
「裏通りに見世物小屋がある」
観光客は近寄らない場所だった。
夫は半信半疑で向かった。
薄暗い路地の奥。
古びた建物。
色あせた看板。
中から笑い声が聞こえる。
夫は中へ入った。
空気が重い。
酒の匂い。
埃っぽい空間。
客たちの笑い声。
舞台にはいくつかの檻が並んでいた。
そして一番奥。
そこにいた。
最初、夫には何を見ているのか分からなかった。
布に包まれた丸い影。
人形のようにも見える。
だが違った。
生きている。
ゆっくりと呼吸している。
客たちは笑っていた。
「あれを見ろ」
「まるで達磨だ」
そんな言葉が聞こえる。
夫は凍りついた。
その女性は、手足を失い、まるで達磨人形を思わせる姿で檻の中に置かれていた。
それが「だるま女」と呼ばれる理由だった。
しかし夫が本当に恐怖を覚えたのは、その後だった。
女性がこちらを見た。
虚ろだった目が大きく見開かれる。
涙があふれる。
夫の胸が激しく脈打つ。
どこかで見た目だった。
いや。
知っている目だった。
女性は何かを言おうとした。
口が動く。
だが言葉にならない。
声も出ない。
助けを求めていることだけが伝わる。
夫は後に知る。
彼女は話すことができない状態にされていたのだと。
「……まさか」
夫は檻へ近づく。
女性は必死にうなずく。
涙が止まらない。
叫びたいのだろう。
名前を呼びたいのだろう。
しかしできない。
だから目だけで訴えていた。
助けて。
私だよ。
気づいて。
そう言うように。
だが夫はまだ信じ切れなかった。
あまりにも変わり果てていたからだ。
数年前の妻と結びつかない。
すると女性はゆっくりと顔を傾けた。
左耳が見える。
耳の後ろ。
小さな傷跡。
結婚前の旅行で転んだ時にできた傷。
夫しか知らない傷だった。
夫の全身から血の気が引く。
本当に妻なのだ。
探し続けた妻なのだ。
さらに女性は目を閉じ、ゆっくり三回うなずいた。
そして一度だけ首を傾ける。
夫は息を呑む。
それは二人だけの合図だった。
付き合っていた頃から使っていた、誰にも教えていない秘密のサイン。
「大丈夫」
を意味する仕草だった。
夫の目から涙がこぼれる。
「本当に……お前なのか」
女性も涙を流しながら何度もうなずく。
その時だった。
見世物小屋の関係者たちが異変に気付く。
夫は乱暴に引き離された。
抵抗する。
叫ぶ。
だが数人に囲まれ、外へ追い出されてしまう。
最後に見えたのは、檻の中からこちらを見続ける妻の目だった。
翌朝。
夫は警察を連れて戻った。
場所は覚えている。
間違えるはずがない。
あの路地だ。
あの角を曲がる。
そして――
夫は立ち尽くした。
何もない。
建物がない。
見世物小屋そのものが消えていた。
近所の人間に尋ねても、
「そんな建物は知らない」
と言うばかりだった。
妻は再び消えた。
そして二度と見つからなかった。
夫は生涯、あの目を忘れられなかったという。
助けを求める目。
再会を喜ぶ目。
そして、最後まで諦めていなかった目を。
それ以来、この話は「だるま女」と呼ばれる都市伝説として語り継がれるようになった。
この物語のベースとなっただるま女の都市伝説、その起源と真相はこちら。
だるま女の都市伝説・起源と真相

