バスタブの悪夢(Kidney Heist)
※この物語はフィクションです。
「お前、本当に一人で行くのか?」
成田空港の出発ロビーで、同僚の高橋が笑いながら言った。
「三泊四日だしな。仕事ついでの観光だよ」
健太は肩をすくめた。
海外出張は珍しくなかったが、今回は現地企業との商談が終われば自由時間も多い。久しぶりの海外を楽しみにしていた。
そのとき高橋が思い出したように言う。
「気をつけろよ。知らない女に声かけられて飲み物飲まされるなよ」
「なんだよ、それ」
「ほら、あの都市伝説。目が覚めたら腎臓取られてるってやつ」
健太は笑った。
「そんなの映画の見過ぎだろ」
そのときは、本気でそう思っていた。
――三日後。
仕事は順調に終わった。
夜の街は活気に満ちていた。
ネオンが雨上がりの路面に反射し、人々の話し声と音楽が混ざり合う。
健太はホテル近くのバーに入った。
一人で飲むつもりだった。
だが、カウンター席に座って十分ほどすると、一人の女性が隣に腰掛けた。
「旅行ですか?」
流暢な英語だった。
年齢は二十代後半くらい。
派手すぎず、親しみやすい雰囲気だった。
気付けば自然に会話が弾んでいた。
「この街は初めてなんです」
「それなら良い場所を知っていますよ」
女性は微笑んだ。
健太は少しだけ警戒した。
しかし会話に不自然な点はない。
女性は地元の話をし、観光地を教え、仕事の愚痴までこぼした。
普通だった。
驚くほど普通だった。
だからこそ、警戒心が薄れた。
「乾杯」
女性が差し出したグラスを受け取る。
それが最後の記憶になった。
――。
目を覚ましたとき。
最初に感じたのは寒さだった。
骨の奥まで染み込むような冷たさ。
次に気付いたのは、水音だった。
ぽたり。
ぽたり。
どこかで水滴が落ちている。
健太はゆっくり目を開いた。
視界がぼやける。
白い天井。
薄暗い照明。
そして自分の身体が冷たい水に浸かっていることに気付いた。
「……なに……?」
声がかすれる。
動こうとした瞬間、腹部に鈍い痛みが走った。
視線を落とす。
シャツがめくれている。
脇腹のあたりに見慣れない包帯が巻かれていた。
理解が追いつかない。
頭の中が真っ白になる。
浴槽の中には大量の氷。
その氷がゆっくりと溶けている。
そして浴槽の縁には一枚の紙が置かれていた。
震える手で紙を取る。
そこには英語で短く書かれていた。
『動くな。すぐ病院へ行け。さもないと死ぬ。』
心臓が激しく脈打った。
まさか。
そんなはずはない。
だが、脳裏に高橋の言葉が蘇る。
――目が覚めたら腎臓取られてるってやつ。
健太は必死に自分を落ち着かせようとした。
都市伝説だ。
作り話だ。
そんなもの現実にあるはずがない。
しかし脇腹の違和感だけは現実だった。
冷たい汗が流れる。
鏡を見る。
顔色は異様に悪い。
そして腹部には確かに新しい傷跡があった。
その後の記憶は曖昧だった。
救急車。
病院。
慌ただしく動く医師たち。
警察の事情聴取。
何度も同じ説明を繰り返した。
バーで女性と会ったこと。
酒を飲んだこと。
目覚めたら浴槽にいたこと。
だが犯人は見つからなかった。
女性の身元も分からない。
防犯カメラも不自然なほど途切れていた。
そして数日後。
担当医が病室を訪れた。
険しい表情だった。
「落ち着いて聞いてください」
その瞬間、健太は悟った。
医師は静かに言った。
「あなたの左腎は摘出されています」
世界から音が消えた。
まるで遠くで誰かが話しているようだった。
健太は医師の口元を見つめた。
冗談であってほしかった。
誤診であってほしかった。
しかし現実は変わらない。
腎臓はなくなっていた。
誰かに奪われていた。
帰国後も悪夢は終わらなかった。
警察は捜査を続けたが進展はない。
海外でも似たような話は無数に報告されている。
しかし決定的な証拠は出てこない。
誰も真相を知らない。
ネットでは作り話だと言う者もいた。
都市伝説だと言う者もいた。
健太自身もそう思いたかった。
だが自分の身体に残る傷だけは消えない。
一年後。
健太は偶然、海外の掲示板で奇妙な書き込みを見つけた。
『バスタブの悪夢を知っているか?』
そこには世界各地の体験談が並んでいた。
氷の浴槽。
腹部の傷。
消えた腎臓。
そして最後に、ある投稿者がこう書いていた。
『あれは一つの組織ではない。同じ手口を真似る者が増えている』
健太は背筋が冷たくなった。
都市伝説が事件を生み。
事件が新たな都市伝説を生む。
もしそうだとしたら――。
なぜ世界中で同じ話が語られるのか。
なぜ皆、決まってバスタブの中で目を覚ますのか。
なぜ誰も犯人を見つけられないのか。
その答えは今も分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
この話はいつしか「バスタブの悪夢」と呼ばれるようになった。
目覚めたとき、そこが氷の浮かぶ浴槽だったからだ。
そして今でも世界のどこかで。
知らない街のバーで。
知らない誰かが差し出したグラスを手に取る人間がいる。
その人物が翌朝どこで目を覚ますのか。
誰にも分からない。
少なくとも――表向きは。
だがもしあなたが海外のホテルで目を覚まし、妙に身体が重く、腹部に見覚えのない痛みを感じたなら。
最初に確認するべき場所は鏡ではない。
浴室だ。
そこに溶けかけた氷が残っていたとしたら。
その時点で、もう手遅れなのかもしれない。
この物語のベースとなった都市伝説の起源・世界各地のバリエーションが気になる方はこちら。
バスタブの悪夢・都市伝説の起源と真相


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