隙間女の都市伝説を題材としたショートストーリー

隙間女の都市伝説 STORY

この部屋の家具は、どれも壁にぴったりくっつけてある。本棚も、冷蔵庫も、机も。隙間には、すべて黒いガムテープを貼ってある。

大学二年の春、駅から歩いて十五分の、古い木造アパートに引っ越した。六畳一間で、家賃は相場の半分だった。

ベッドの横に、背の高い本棚を置いた。床が少し傾いているせいで、本棚と壁のあいだには、一センチほどの隙間ができた。指も入らない幅だった。

住みはじめて十日ほどたった夜、電気を消すと、音がした。

コッ。

固いものが、木を軽く叩く音だった。ベッドのすぐ横、本棚のほうから聞こえた。

電気をつけても、何もなかった。電気を消すと、また鳴った。

コッ。

古い建物だから、木がきしむのだろうと思った。

それから毎晩、電気を消すたびに、その音がするようになった。

ある夜、スマホのライトで、本棚と壁の隙間を照らしてみた。

隙間の奥は、真っ黒だった。隙間の奥行きは、本棚と同じ三十センチほどしかないはずだった。それなのに、ライトの光は暗がりに吸い込まれて、突き当たりが見えなかった。

隙間の真ん中あたりから、髪の毛が一本、垂れ下がっていた。

黒くて、長い髪だった。俺の髪ではない。俺は短髪だし、この部屋に女の子を呼んだこともない。前の住人のものだろうか、と思った。引っ越しのときに、本棚の裏に残っていたのかもしれない。

気味が悪かったが、そのままにしておくのも嫌だった。俺は髪を指でつまんで、引っぱった。

髪は、するすると出てきた。

三十センチ。五十センチ。まだ終わらなかった。指に巻きつけながら引くと、髪は少し湿っていて、ひんやりしていた。ほこりをかぶった古い髪の手ざわりではなかった。洗ったばかりの、生きた人の髪のようだった。

七十センチを超えたあたりで、引く手が止まらなくなった。どこまで続いているのか、確かめずにはいられなかった。

一メートルほど引き出したところで、髪が、ぴんと張った。

何かに引っかかったのだと思った。もう少し強く引いた。

髪は、動かなかった。それどころか、指に巻いた髪が、ゆっくりと締まってきた。隙間の奥へ、少しずつ、引き戻されていた。

引っかかっているのではない。隙間の奥で、誰かがこの髪の根元を持っている。いや、根元は、誰かの頭についている。

その誰かが、俺と同じように、髪を引っぱり返していた。

全身の毛が逆立った。俺は指に巻いた髪を振りほどくように、手を放した。指の関節に、髪が食い込んだ赤い跡が残っていた。

髪は、床をすべって、すうっと隙間の奥へ吸い込まれていった。最後の一センチが消える瞬間、隙間の奥で、何かがかすかに、ふふ、と息を漏らした気がした。

その夜は、電気をつけたまま、本棚に背を向けて眠った。それでも明け方まで、背中で隙間の気配を感じていた。

それから数日、あの部屋で一人で夜を過ごすのが怖くなった。電気を消すたびに、あの音が鳴る。音が鳴るたびに、指に食い込んだ髪の感触を思い出した。

誰かに、そばにいてほしかった。けれど、隙間から髪が出てきて引っぱり返された、などと言えば笑われるに決まっている。

だから、大学で同じゼミの圭介に「新しいゲームを買ったから、泊まりで朝までやろう」とだけ言った。二人なら、きっと何も起きない。もし何か起きても、自分以外の誰かがそれを見てくれる。そう思った。

週末、圭介は缶ビールを提げて、何も知らずにやって来た。

夜中、部屋の電気を消し、テレビの明かりだけで、二人で床に座ってゲームをしていた。圭介が、コントローラーを握ったまま、急に黙った。画面の中で、圭介のキャラクターが敵に撃たれて倒れた。圭介は、それにも気づいていなかった。

「おい、死んでるぞ」

圭介は返事をしなかった。本棚の横の、壁との隙間を見ていた。顔から、血の気が引いていくのがわかった。

「……なあ。この部屋、誰か住んでる?」

声が、かすれていた。

「俺だけだよ。なんだよ」

圭介はコントローラーを床に置いた。その手が、小刻みに震えていた。視線は、隙間から一度も離れなかった。離した瞬間に何かが起きる、とでもいうように。

「電気、つけて。全部」

言われるまま、部屋の電気をつけた。圭介はそれでも隙間から目を離さず、手探りでリュックをつかんで、壁に背中をつけたまま、じりじりと玄関のほうへ下がっていった。

「おい、どうしたんだよ」

「目が合った」

玄関で靴をつっかけながら、圭介は早口で言った。

「その隙間の中に、女の顔があった。紙みたいに薄く、つぶれてた。鼻が横に折れて、ほっぺたにはりついてて、片方の目だけが、隙間の中で縦に細長くなって、こっちを見てた」

圭介は、そこで息を吸った。

「瞬きしたんだよ。俺と目が合ったまま」

圭介は、俺の腕を強くつかんだ。指が冷たかった。

「お前も、今日はここで寝るな」

そう言い残して、圭介は夜中の二時に、終電もない道を歩いて帰っていった。それきり、この部屋には一度も来ていない。誘っても、外でしか会おうとしない。

俺は、ついて行かなかった。財布には千円札が二枚しかなく、泊めてもらえるあてもなかった。

引っ越す金もなかった。この部屋を借りたときに貯金はほとんど使い切っていたし、親の反対を押し切って自分で決めた部屋だった。

ここに住むしかない。だったら、隙間をなくせばいい。

次の日から、俺は部屋じゅうの隙間をふさいだ。

本棚の下に紙を挟んで傾きを直し、壁にぴったりつけた。冷蔵庫も机もベッドも、壁に押しつけた。それでも残ったわずかな隙間には、ガムテープを貼った。押し入れのふすまも、ドアの下も、テープでふさいだ。

その夜、電気を消しても、音はしなかった。

次の夜も、その次の夜も、静かだった。

それでも眠るときは、ベッドの壁側に、背中をぴったりつけて寝るようになった。そうしていれば、少なくとも背中のほうからは、何も入ってこられない。

今夜も、そうして寝ていた。

夜中に目が覚めた。部屋は暗かった。

背中が、少し寒かった。

寝ているうちに体がずれて、背中と壁のあいだに、ほんの少しだけ隙間ができていた。一センチほどの隙間だった。

コッ。

音がした。

壁からではなかった。俺の背骨からだった。

固くて冷たいものが、背骨のひとつを、軽く叩いていた。爪の先だった。

動けなかった。

背中と壁のあいだの、その一センチの隙間を、細い指が、上から下へ、ゆっくりとなぞっていった。

耳のうしろで、髪の毛が一本、首すじに垂れてきた。

「やっと、近くに来てくれた」

女の声だった。耳のすぐ横、壁と俺の頭のあいだの、ほんのわずかな隙間から聞こえた。

俺は今、その姿勢のまま、朝が来るのを待っている。

背中を壁から離せば、隙間は広がる。

壁に押しつければ、その指を、自分の背中で挟むことになる。


この物語のもとになった隙間女の都市伝説、その起源と真相はこちら。
隙間女の都市伝説・起源と真相

※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

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