紫鏡
※この物語はフィクションです。
「ねえ、知ってる? 紫鏡の話」
その言葉を聞いたのは、高校二年の秋だった。
放課後の教室には私と友人のサツキしか残っていなかった。
西日が窓から差し込み、教室全体を赤黒く染めている。
誰もいないはずなのに、妙に静かだった。
「紫鏡?」
私は鞄に教科書を詰めながら聞き返した。
「知らない?」
サツキは少し笑った。
「二十歳になるまでその言葉を覚えていたら死ぬんだって」
「なにそれ」
思わず笑ってしまった。
「そんな都市伝説あるわけないじゃん」
「私もそう思うよ」
そう言いながらも、サツキはなぜか教室の後ろにある古い姿見を見つめていた。
文化祭で使われたまま放置されている鏡だった。
鏡面は少し曇り、木枠はところどころ傷んでいる。
夕日のせいか、その鏡だけが妙に暗く見えた。
「でもね」
サツキは声を潜めた。
「昔からある話らしいよ」
「昔から?」
「お母さんも知ってた。おばあちゃんも知ってた」
私は少しだけ興味を持った。
ネット発祥の怪談ではないらしい。
「で、なんで紫鏡なの?」
「知らない」
サツキは首を振った。
「誰も知らないんだって」
「へえ」
「ただ、二十歳になるまで覚えていたら駄目なんだってさ」
その時は、それだけだった。
ただの暇つぶしの怪談。
高校生らしい他愛もない話。
そのはずだった。
しかし。
その日から私は「紫鏡」という言葉を忘れられなくなった。
忘れようとすると、逆に思い出す。
夜道を歩いている時。
風呂場の鏡を見る時。
洗面所で歯を磨いている時。
不意に頭の中へ浮かんでくる。
紫鏡。
ただそれだけの言葉だった。
特別に恐ろしい意味があるわけでもない。
気味の悪い響きというほどでもない。
それなのに、なぜか忘れられない。
忘れたと思った頃に限って、不意に記憶の底から浮かび上がってくる。
まるで誰かが、思い出させているかのように。
大学へ進学しても変わらなかった。
サツキとは別の大学へ進み、会う機会も減った。
新しい友人。
アルバイト。
恋人。
忙しい日常。
その中で都市伝説のことなど考える時間はほとんどなくなった。
それでも、鏡を見るたびに思い出すことがあった。
紫鏡。
二十歳まで覚えていたら死ぬ。
ただそれだけの噂を。
やがて十九歳の冬が来た。
その頃には都市伝説の内容すら曖昧になっていた。
ただ。
「二十歳まで覚えていると死ぬ」
その部分だけは妙にはっきり覚えていた。
そして迎えた誕生日の夜。
私は大学のレポートを書いていた。
時計を見る。
午後十一時五十分。
あと十分で二十歳だった。
ふと。
理由もなく胸騒ぎがした。
その瞬間だった。
何年も前の放課後。
赤く染まった教室。
サツキの声。
古い姿見。
すべてが鮮明によみがえった。
『二十歳になるまで覚えていたら死ぬんだって』
背筋が冷たくなった。
馬鹿らしい。
そう思う。
ただの都市伝説だ。
なのに。
心臓だけが異様に速く脈打っている。
時計を見る。
十一時五十五分。
私は無意識に部屋の鏡へ目を向けた。
ワンルームの部屋に置かれた安物の姿見。
普段と何も変わらない。
当然だ。
都市伝説が本当なわけがない。
十一時五十八分。
十一時五十九分。
秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。
そして。
日付が変わった。
二十歳になった。
何も起きない。
私は思わず苦笑した。
「ほらな」
そう呟いた瞬間だった。
鏡が揺れた。
錯覚かと思った。
しかし違う。
鏡面が水面のように波打っている。
私は立ち上がった。
呼吸が浅くなる。
鏡を見つめる。
すると。
鏡の色が変わり始めた。
透明だったはずの鏡面が。
ゆっくりと。
じわじわと。
紫色に染まっていく。
私は動けなかった。
目を離せなかった。
その紫は美しい色ではなかった。
どこまでも暗く。
深く。
底が見えない。
夜の海を覗き込んでいるような色だった。
「……なんだよ」
声が震える。
鏡の中に映る自分を見る。
だが。
何かがおかしい。
鏡の中の私は立っている。
しかし。
わずかに動きが遅れている。
私が息を吸った後で。
鏡の中の私が息を吸う。
私が瞬きをした後で。
鏡の中の私が瞬きをする。
あり得ない。
私は後ずさった。
すると鏡の中の私は動かなかった。
その場に立ったまま。
じっとこちらを見ている。
全身から汗が噴き出した。
鏡の中の私は。
ゆっくりと笑った。
私は笑っていない。
なのに。
鏡の中の私だけが笑っている。
その瞬間。
部屋の空気が凍りついた。
鏡の中の私が口を開く。
だが声は聞こえない。
ただ。
何かを必死に伝えようとしているように見えた。
助けて。
そう言っているようにも見えた。
違う。
出して。
そう言っているようにも見えた。
私は恐怖のあまり目を閉じた。
そして再び鏡を見る。
そこにはいつもの自分が映っていた。
紫色も消えている。
何もない。
ただの鏡。
夢だったのかもしれない。
私はその場に座り込み、朝まで眠れなかった。
翌朝。
鏡は普通だった。
その後も何も起きなかった。
事故にも遭わない。
病気にもならない。
私は社会人になった。
ごく普通の生活を送っている。
だが。
今でも鏡を見るのが少し怖い。
駅のトイレ。
エレベーターの鏡。
車の窓ガラス。
夜のショーウインドウ。
時々、本当に時々だが。
私よりほんの少しだけ遅れて動く自分が映ることがある。
疲れているだけかもしれない。
気のせいかもしれない。
そう思うようにしている。
ただ。
あの二十歳の夜以来、一つだけ分からないことがある。
あの時。
鏡の中で笑っていたのは誰だったのか。
そして。
助けを求めていたのは。
本当に向こう側の私だったのだろうか。
それとも――。
今こうして鏡を見つめている私の方が、本当は向こう側にいるのだろうか。
その答えだけは、今も分からない。
この物語のベースとなった〇〇の都市伝説、その起源と真相はこちら。
紫鏡の都市伝説・起源と真相

