毎晩、寝る前にスマホの位置情報の履歴を見るのが癖になっている。
営業職で、交通費の精算に使うのが始まりだった。今日はどこからどこへ移動して、何時にどの駅で降りたか。地図の上に一本の線が引かれ、その日の自分の動きが、点と線で残っている。見返すと、なんとなく一日が片付いた気がした。
その夜も、いつもと同じ下りの終電に乗った。
地方のローカル線で、終電の車内は空いている。三両目の、進行方向に向かって左側のロングシート。いつもの席に座ると、向かいでスーツ姿の男が眠っていた。紺のネクタイに、小さな金色のピンを留めている。ドアの近くでは学生らしい若者がスマホを見ていて、端の席には、紺色のカーディガンを着た年配の女性がひとり、膝の上で手を組んでいた。
カーディガンの女性には、見覚えがあった。何度か、この終電で見かけたことがある。いつも同じ端の席に座り、窓の外を見ていた。どこで降りるのかは知らなかった。自分より先に降りるところも、あとに残っているところも、そういえば見たことがなかった。
窓の外は暗い。駅と駅のあいだには田んぼと山しかなく、街灯もまばらだ。十二分で次の駅、そのあと七分、九分。この路線の時間は体が覚えている。
最初に気づいたのは、その九分が過ぎても電車が減速しないことだった。
窓の外を見る。通過したはずの駅の明かりが、どこにもない。車内アナウンスも流れない。電車はむしろ速度を上げて、真っ暗な中を走り続けている。スマホは圏外だった。トンネルでもないのに。
顔を上げて、息が止まりそうになった。
向かいの男がいない。ドアの近くの若者もいない。停車はしていない。ドアも一度も開いていない。それなのに、車内には自分と、端の席の女性しか残っていなかった。
女性がゆっくりと顔を上げた。目が合う。
「まだ降りないの?」
聞き返そうとしたとき、電車が急ブレーキをかけた。ドアが開く。
古びたホームに、蛍光灯がひとつだけ灯っていた。白地に黒い文字の駅名標が、その光の下に立っている。
きさらぎ。
知らない駅だった。二十年近く乗っている路線で、一度も見たことのない名前だった。振り返ると、端の席は空になっていた。ドアが閉まり、電車は音もなく闇の中へ走り去っていった。
証拠を残しておこう、と思った。スマホのカメラを駅名標に向けてシャッターを押す。画面には、確かに「きさらぎ」の文字が写っていた。写真に撮れるものなら、現実にあるものだ。そう思うと、少しだけ落ち着いた。時計は午前二時を少し過ぎていた。
無人の改札を抜けて外に出ると、舗装の剥がれた道が一本、山のほうへ続いていた。民家らしい影はいくつかあるが、灯りのついた窓はひとつもない。遠くから、太鼓の音が聞こえていた。祭囃子のような、一定のリズム。人がいる。それだけを頼りに歩き出した。
古い踏切の前に、作業着の男が立っていた。
ほっとして近づき、声をかけようとして、言葉が出なくなった。
男の顔が、うまく見えなかった。目も鼻も口も、ちゃんとそこにある。なのに、焦点が合わない。ピントのずれた写真のように、見ようとするほど輪郭がにじんで、どんな顔なのかが頭に残らない。
「駅から来たの」
男は言った。口のあたりが動いたのはわかったが、唇の形は見えなかった。
「……はい。二時過ぎに」
男は腕時計を見るような仕草をした。
「なら、まだ顔があるね」
意味がわからず黙っていると、男は続けた。
「ここに長くいると、顔がなくなる。少しずつね。全部なくなったら、もう暗いほうの電車にしか乗れない」
男は自分の顔を、指でなぞった。指先が、頬のあたりで少し沈んだように見えた。
「俺はもう、だめだけど」
太鼓の音が、急に近くなった。男が線路の向こうを見て、「早く戻りな」と言った。
走った。
背後で太鼓が鳴っている。どれだけ走っても、音は同じ距離でついてくる。音の合間に、人の声が混じり始めた。何人もの声が、ばらばらに、誰かを呼んでいる。
自分の名前だった。
呼んでいる声のひとつが、自分の声だった。
足がもつれそうになったとき、うなじに何かが触れた。冷たい指だった。指は首から耳の後ろを伝い、頬へ回ってきた。形を確かめるように、ゆっくりと、目の縁を、鼻の脇を、唇の端をなぞっていく。
叫んで、腕を振り払った。振り返らずに、駅の明かりだけを見て走った。
ホームに駆け込むと、電車が停まっていた。
車内は暗かった。座席に、人が並んで座っている。全員が、こちらを向いていた。
顔がなかった。
目も鼻も口もない。卵の殻のように、のっぺりとした皮膚が、首の上に乗っているだけだった。それなのに、全員がこちらを見ているのがわかった。
その中のひとりが、紺のネクタイに、小さな金色のピンを留めていた。
隣には、学生らしい若者が座っていた。手にスマホを握っている。若者の顔は、まだ半分残っていた。口だけが、のっぺりとした皮膚の下半分に取り残されたように開いて、何かを言おうと動いていた。声は出ていなかった。
ドアは開いている。乗れば帰れる。なぜかそう思えた。足が、勝手にドアのほうへ向かった。
「その電車じゃない」
腕をつかまれた。カーディガンの女性だった。
女性は、もう片方の手で自分の頬に触れた。それから、こちらの頬に触れた。乾いた、温かい手だった。
「まだある。よかった」
暗い電車はしばらく待つように停まっていたが、やがてドアを閉め、走り去った。どれくらい経ったのか、遠くから白い光が近づいてきた。蛍光灯の明かりで満ちた、ごく普通の車両だった。乗り込んで振り返ると、ホームにはもう誰もいなかった。
気がつくと、いつもの終点の駅で、駅員に肩を揺すられていた。
家に着いたのは四時過ぎだった。少しだけ眠り、いつも通り出社した。誰にも話さなかった。話しても、夢だと言われるに決まっている。
その夜、いつもの癖で位置情報の履歴を開いた。
前の晩の記録は、こうなっていた。二十三時四十八分、いつもの駅で下車。零時二分、自宅に到着。それ以降、移動なし。記録の上では、自分はあの夜、まっすぐ家に帰ったことになっていた。
駅名標の写真を探した。あの夜の時刻に、確かに一枚あった。開くと、写っていたのは毎晩降りている、いつもの駅の名前だった。
夢だったのだ、と思うことにした。そのほうが楽だった。
一週間ほどして、履歴の中にそれを見つけた。
毎晩、同じ点がひとつ増えている。いつもの駅と、そのひとつ手前の駅のあいだ。線路の上の、何もないはずの場所。名称は空欄で、時刻は毎晩、零時四十一分。その時間、自分は布団の中で眠っている。
最初は、滞在時間二分だった。先週は四分になった。昨夜は、十一分だった。点を拡大すると、線路から山のほうへ、細い線が数十メートル伸びて、また戻ってきていた。
同じころから、スマホの顔認証が通らないことが増えた。
最初は、寝起きのせいだと思っていた。今は、三回に一回しか通らない。鏡を見れば、自分の顔はちゃんとある。目も、鼻も、口も。
ただ、さっき鏡を見たとき、一瞬だけ、焦点が合わなかった。
記録の中の自分は、毎晩、少しずつ長くあそこにいる。
今のところは、まだ戻ってきている。
この物語のもとになったきさらぎ駅の都市伝説、その起源と真相はこちら。
きさらぎ駅の都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

