海難法師の伝承を題材としたショートストーリー

夜の離島の坂道に止まる軽トラック。海から続く濡れた足跡と、転がった竹籠 STORY

「今夜は、何があっても、海を見ちゃいけないよ」

祖母はそう言って、雨戸の隙間に、緑の葉のついた小枝を一本ずつ挿していった。トベラという木の枝だと、前に聞いたことがある。

伊豆諸島の、ある島。祖母はここで一人で暮らしている。先週、庭で転んで足首を痛めたと聞いて、私は大学の休みを使って様子を見に来ていた。冬に来るのは、初めてだった。

着いたその日が、一月二十四日だった。

島の人たちは、この夜を日忌様(ひいみさま)の晩と呼ぶ。昔、海で死んだ二十五人の若者が、毎年この夜に、海から島へ帰ってくる。だから日が暮れたら外に出ない。戸口には籠をかぶせ、雨戸にはトベラを挿す。海を見てはいけない。外のトイレも使わない。神棚には、二十五個の小さな餅を供える。

「餅がネズミにかじられたら、その家には悪いことが起きるからね」

祖母は神棚の前で手を合わせてから、玄関の外に古い竹籠を伏せて置いた。夕方の五時だった。窓の外を見ると、どの家もまだ明るいうちから、雨戸をぴったり閉めていた。

夜十時すぎ、祖母が布団の中でうめき始めた。

足首が、夕方より倍くらいに腫れていた。熱もある。痛み止めはどこかと聞くと、祖母は顔をしかめて言った。

「車の、ダッシュボードに……」

昼間、祖母を島の診療所へ連れていくのに、祖母の軽トラックを借りた。そのとき出してもらった痛み止めを、袋ごと車に置き忘れていた。車は、家の前の坂に止めてある。玄関から十歩もない。

「朝まで、我慢するから」

祖母はそう言ったが、額には脂汗が浮かんでいた。私は靴をはいた。

「行くなら、これを頭に」

祖母は枕もとのトベラの枝から葉をちぎって、私の髪に挿した。

「下だけ見て。海のほうは、絶対に見ちゃだめ。何が聞こえても、振り向かないで」

玄関の籠をそっと持ち上げて、外に出た。

風が、止まっていた。

島に着いてから、ずっと吹いていた強い海風が、まるで誰かが息を止めたみたいに、ぴたりとやんでいた。坂の下の港のほうから、波の音だけが聞こえる。私は足もとだけを見て、軽トラックまで歩いた。運転席のドアを開け、ダッシュボードから薬の袋をつかんだ。

そのとき、坂の下から、音がした。

ぴちゃ。ぴちゃ。

濡れた足で、アスファルトを踏む音だった。一人ではなかった。何人もの足音が、ゆっくりと、港のほうから坂を上ってくる。

私は下を向いたまま、ドアを閉めようとした。そのとき、開けたドアの窓ガラスが目に入った。

暗いガラスに、私の背後の景色が映っていた。坂道と、その下の黒い海。そして坂の途中に、人の列があった。

みんな、つばの広い笠をかぶっていた。着物の裾から、海水がしたたっている。笠の下の顔は、どれも暗くて見えなかった。列はずっと下の、海の中まで続いていた。

列の先頭の一人が、立ち止まった。

笠が、ゆっくりと、こちらを向いた。

私は叫び声をのみこんで、家に走った。玄関に飛びこんだとき、肩が籠にぶつかって、籠が転がった。髪から、トベラの葉が落ちたのがわかった。拾いに戻る勇気はなかった。私は戸を閉めて、鍵をかけた。

ぴちゃ。ぴちゃ。ぴちゃ。

大勢の足音が、家の前の坂を上っていった。雨戸の向こうを通りすぎて、島の奥の、神社のほうへ。やがて、聞こえなくなった。

私は祖母に薬を飲ませて、明け方まで、その横に座っていた。

朝、祖母の熱は下がっていた。台所でお茶をいれていると、足を引きずって神棚の前まで行った祖母が、そこで固まっていた。

「一つ、かじられてる」

二十五個の餅のうち、一つに、歯形が残っていた。ネズミの小さな歯の跡ではなかった。人の歯の形をした、大きな半月形の跡だった。

板の間には、まだ湿った足跡が、一人分だけ、玄関から続いていた。足跡は神棚の前で止まって、そこから、奥の廊下へ向かっていた。

祖母は、玄関に転がったままの籠を見た。それから、私の髪を見た。トベラの葉は、もうなかった。

「あんた、一人、連れて入ってきたんだね」

二十五人の若者は、どの島にもかくまってもらえなかった。だから、毎年、帰る場所を探して、海から上がってくる。祖母はそう言った。

「やっとかくまってもらえたんだ。あんたのそばからは、もう離れないよ」

祖母はそう言って、それきり黙ってしまった。

祖母の足が治るのを待って、私は東京に帰った。

あれから一年がたつ。

アパートの部屋は、いつも、かすかに潮のにおいがする。夜中に目を覚ますと、押し入れの奥から、ぽたり、ぽたりと、水のしたたる音がする。開けてみても、中は乾いている。

祖母からは、毎週、トベラの枝が送られてくる。「戸口から絶対に外さないこと」と書いた手紙と一緒に。

今朝届いた手紙は、いつもと違った。祖母の字が、ひどく震えていた。

「二十四人が、一人を探している。今年は、あんたのところへ行くかもしれない」

カレンダーを見た。

今日は、一月二十三日だ。

押し入れの奥で、また、水の音がした。今夜は、いつもより、ずっと大きい。


この物語のもとになった海難法師の言い伝え、その由来と島の風習はこちら。
海難法師(日忌様)の都市伝説・起源と真相

※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

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