※この物語はフィクションです。
最初に気になったのは、音だった。
新しく借りた部屋は古かった。
駅から徒歩十五分、築三十年近い木造アパート。家賃は安く、大学まで自転車で通える。
一人暮らしには十分だった。
六畳一間。
ベッド、本棚、折りたたみ机。
家具を置くと、壁との間に少しだけ隙間ができる。
どこの家にもある程度のものだった。
住み始めて十日ほど経った夜。
寝る前に部屋の電気を消した瞬間、
コッ
と音がした。
何か小さなものが当たったような音。
起き上がって電気をつける。
何もない。
また消す。
しばらくして、
コッ。
壁側。
ベッドの向こう。
でも面倒になって寝た。
古い建物なんてそんなものだと思った。
次の日。
朝起きると、スマホが床に落ちていた。
寝る前、確か机に置いたはずだった。
気になったが、寝ぼけて触ったのかもしれない。
その日から妙なことが増えた。
消しゴムが机の奥に落ちている。
靴の向きが少し違う。
ベッド脇に置いたペットボトルが壁際に寄っている。
小さすぎて、人に話すほどではない。
ある日、友人の圭介が部屋に来た。
ゲームをしながら話していると、突然こう言った。
「この部屋さ」
「ん?」
「誰か住んでる?」
笑った。
「俺だけだけど」
圭介は曖昧な顔をした。
「いや、なんか……」
視線が壁際に向く。
ベッドと壁の隙間。
十センチくらい。
掃除機も入らない。
「今さ、動かなかった?」
寒気がした。
「何が?」
「髪みたいなの」
見た。
何もない。
圭介はすぐ謝った。
「ごめん。疲れてる」
それ以上言わなかった。
でも、その日以降、自分も見るようになった。
視界の端だけ。
壁の隙間。
本棚の奥。
冷蔵庫の横。
何か黒いものが引っ込む。
正面から見ると何もない。
夜だけだった。
確認すると消える。
だから気のせいだと思い続けた。
ある夜。
眠れず、スマホを見ていた。
午前二時過ぎ。
部屋は暗い。
その時、気づいた。
ベッドの横。
壁との隙間。
暗い。
ただ、その暗さだけおかしかった。
目を凝らした。
何かがある。
影じゃない。
髪だった。
黒い髪。
壁に沿うように縦に落ちている。
頭の中で理由を探す。
服?
コード?
カバン?
でも違う。
髪の下に、肌色が見えた。
顔だった。
女だった。
身体は見えない。
隙間の奥にいる。
顔だけ。
こちらを見ていた。
距離、一メートルもない。
悲鳴は出なかった。
動けなかった。
数秒後。
女が、ほんの少し首を動かした。
隙間に沿って。
横じゃない。
縦に。
まるで、その幅の中でしか動けないみたいに。
そこで初めて気づいた。
あの隙間に、人間の頭は入らない。
電気をつけた。
何もない。
次の日、管理会社に電話した。
遠回しに聞いた。
「前の住人って、長く住んでました?」
少し間があった。
担当者は答えた。
「短かったですね」
「何か理由は」
「……部屋が落ち着かない、と」
変な言い方だった。
夜。
引っ越そうと決めて荷造りした。
ベッドを動かした。
掃除もしようと思った。
壁との隙間を見る。
埃だけ。
安心した。
その時、スマホが鳴った。
圭介だった。
開口一番、言った。
「やっぱり言う」
声が固かった。
「この前、お前の部屋で見た」
黙った。
圭介が続ける。
「女の顔だった」
冷たくなった。
「でも変だった」
「……何が」
「隙間の向こうにいたんじゃない」
息を飲む。
「顔だけ出てたんじゃない」
沈黙。
圭介が小さく言った。
「全部、隙間の中にいた」
その瞬間。
背後で、
コッ
と音がした。
振り返る。
動かしたベッド。
壁との隙間。
さっきまでなかった。
白い指が一本だけ出ていた。
細くて、爪だけ少し長い。
壁と同じ方向に曲がっていた。
次の瞬間、すっと消えた。
荷物は置いて逃げた。
今でも、部屋探しをするときは必ず確認する。
家具を置いたときに、隙間ができないか。
前の住人がすぐ出ていないか。
夜、暗い部屋で。
壁と家具の間が真っ黒に見えたら。
覗かない方がいい。
いるなら、向こうも気づいていないかもしれないから。
この物語のベースとなった隙間女の都市伝説、その起源と真相はこちら。
隙間女の都市伝説・起源と真相


コメント