※この物語はフィクションです。
「ねえ、知ってる?」
放課後の教室で、誰かがそう言った。
窓の外では、雨が降っていた。
六月の終わり。
校庭の端に植えられた木々は雨に濡れ、風が吹くたびに葉を揺らしている。いつもなら運動部の掛け声や、廊下を走る生徒の足音が聞こえてくる時間だった。
しかし、その日は違った。
大雨の影響で、部活動はすべて中止。
生徒たちはとっくに帰宅し、校舎の中には数人の教師と、居残っていた生徒しかいなかった。
「何を?」
美咲が振り返ると、隣の席に座っていた彩香が、声を潜めた。
「この学校の、花子さん」
「……ああ」
美咲は苦笑した。
その名前なら知っている。
この学校に限った話ではない。
学校の怪談として、誰もが一度は聞いたことのある話だった。
三階の女子トイレ。
その三番目の個室。
扉を三回叩いて、
「花子さん、遊びましょ」
そう呼びかける。
すると、中から小さな女の子の声で、
「はーい」
と返事が聞こえる。
そんな噂だ。
「それ、どこにでもある話じゃん」
「でも、この学校の話はちょっと違うんだって」
彩香はそう言って、教室のドアのほうを気にした。
誰かに聞かれるのを嫌がっているようだった。
「何が?」
「花子さんがいるの、三階の三番目の個室なんだけど……」
「うん」
「昔、あそこに女の子が閉じ込められたことがあるんだって」
美咲は黙った。
「閉じ込められた?」
「うん。ずっと昔。まだ今の校舎になる前の話らしいけど」
「誰に?」
「それが分からないの」
彩香は少し間を置いた。
「ただね、その女の子……最後まで名前が分からなかったんだって」
「それで花子さん?」
「違う」
彩香は首を振った。
「花子さんっていう名前は、後から子供たちがつけたんだって」
その言葉を聞いて、美咲はなぜか嫌な感じがした。
「じゃあ、本当の名前は?」
「誰も知らない」
窓の外で、雷が鳴った。
美咲は反射的に窓を見る。
その瞬間だった。
教室の後ろから、
コン。
と、小さな音が聞こえた。
二人は同時に振り返った。
誰もいない。
教室の後ろには、掃除用具入れがあるだけだった。
「……何?」
美咲が言うと、彩香は黙っていた。
「今、音したよね?」
「した」
「何の音?」
「分からない」
二人はしばらく黙っていた。
やがて彩香が、ぽつりと言った。
「……行ってみる?」
「どこへ?」
「三階」
美咲は思わず笑った。
「嫌だよ」
「怖いの?」
「そうじゃなくて、馬鹿らしいから」
「じゃあ、確かめればいいじゃん」
「何を?」
「本当にいるのか」
彩香は立ち上がった。
美咲は止めようとした。
だが、そのときにはもう、彩香は教室のドアを開けていた。
廊下には誰もいない。
蛍光灯が、一定の間隔で並んでいる。
雨のせいなのか、校舎の中はいつもより暗かった。
「ほら」
彩香が振り返る。
「行こうよ」
美咲はため息をついた。
「……三回叩くだけだからね」
「うん」
「変なことになったら、すぐ帰るよ」
「分かってる」
二人は階段を上った。
一階。
二階。
そして三階。
階段を上りきったところで、美咲は足を止めた。
三階の廊下は、誰もいなかった。
教室のドアはすべて閉まっている。
窓ガラスを雨粒が叩いていた。
その音だけが、妙に大きく聞こえる。
「女子トイレ、こっち」
彩香が歩き出す。
美咲も後を追った。
廊下の突き当たり。
女子トイレの入り口が見えてきた。
その前で、彩香が止まる。
「ここ」
「……うん」
美咲はトイレの中を覗いた。
個室は四つ。
奥から一番目。
二番目。
三番目。
四番目。
「本当に三番目なの?」
「うん」
「なんで?」
「花子さんだから」
「理由になってない」
美咲が笑うと、彩香も笑った。
だが、すぐにその笑顔が消えた。
「……やろう」
「本気?」
「ここまで来たんだから」
彩香は三番目の個室の前に立った。
美咲は少し離れた場所で見ている。
彩香が手を上げた。
コン。
一回。
コン。
二回。
そして、
コン。
三回。
「花子さん」
彩香が言った。
「遊びましょ」
返事はなかった。
美咲はほっとした。
「ほら。何も――」
その瞬間。
個室の中から、
「……はーい」
と声がした。
二人の体が固まった。
美咲の背中を、冷たいものが走った。
聞き間違いではない。
確かに聞こえた。
女の子の声だった。
幼い。
それなのに、どこか遠くから聞こえてくるような、不自然な声。
「……今の」
美咲が言う。
彩香は答えない。
三番目の個室を見つめたまま、立ち尽くしている。
「彩香」
「……いる」
「え?」
「中にいる」
彩香が小さく言った。
そのときだった。
個室の中から、
カサッ。
という音がした。
誰かが動いた。
美咲は息を止めた。
「誰かいるの?」
彩香が聞いた。
返事はない。
「先生?」
やはり返事はない。
美咲はスマートフォンを取り出そうとした。
その瞬間。
個室の下。
床と扉の隙間から、小さな赤いものが見えた。
美咲は目を凝らした。
赤い靴。
そう見えた。
個室の中に、誰かがいる。
しかも、こちらを向いている。
「彩香……」
「見ないで」
「え?」
「もう、見ないほうがいい」
彩香の声が震えていた。
美咲は彩香の顔を見る。
そして気づいた。
彩香は個室の扉を見ていない。
その上。
扉の横にある鏡を見ていた。
美咲も鏡を見る。
そこには、二人の姿が映っている。
美咲。
彩香。
そして。
三人目。
美咲は息をのんだ。
鏡の中。
三番目の個室の前に、女の子が立っていた。
おかっぱ頭。
赤いスカート。
白いブラウス。
顔は俯いていて、よく見えない。
「……彩香」
「分かってる」
「鏡……」
「見ないで」
しかし、美咲は見てしまった。
女の子が、ゆっくり顔を上げる。
鏡の中で、その顔が見えた。
普通の女の子だった。
どこにでもいそうな、幼い顔。
だが、美咲には分かった。
この子は、鏡の中にいる。
なのに。
鏡に映っている三番目の個室の扉は閉まっている。
現実でも閉まっている。
その前に、誰もいない。
それなのに、鏡の中には女の子がいる。
美咲は思わず後ろを振り返った。
誰もいない。
もう一度鏡を見る。
女の子がこちらを見ていた。
「……花子さん?」
彩香が呟いた。
その瞬間。
女の子の顔が、ほんの少し笑った。
そして。
鏡の中の女の子が、三番目の個室の扉を指差した。
美咲の心臓が跳ねた。
「彩香、帰ろう」
「うん」
二人は走り出そうとした。
そのとき。
コン。
と音がした。
三番目の個室。
中からだった。
「……今の、何?」
美咲が振り返る。
彩香は答えない。
コン。
二回目。
扉の内側から、誰かが叩いている。
「行こう」
彩香が言った。
二人は廊下へ走った。
その直後。
コン。
三回目。
廊下に出た二人の背後で、個室の扉がゆっくり開く音がした。
美咲は振り返らなかった。
彩香も振り返らない。
二人は階段まで走った。
そのときだった。
「ねえ」
背後から声がした。
幼い女の子の声。
「遊ばないの?」
美咲の足が止まりかけた。
だが、彩香が腕をつかんだ。
「走って!」
二人は階段を駆け下りた。
一階まで戻り、職員室へ向かった。
そこで待っていた教師に事情を話すと、教師は呆れたように笑った。
「花子さん?」
「本当なんです」
「誰かがいたんです」
「女の子が……」
美咲と彩香は必死に説明した。
教師は二人の顔を見て、ため息をついた。
「分かった。私が見てくる」
教師が三階へ向かった。
二人は職員室で待っていた。
十分。
二十分。
やがて教師が戻ってきた。
「誰もいなかったぞ」
「でも……」
「個室も全部確認した」
教師はそう言った。
「ただな」
「何ですか?」
「三番目の個室だけ、鍵が閉まっていた」
美咲と彩香は顔を見合わせた。
「だから開けてみた」
教師は続けた。
「中には誰もいなかった」
「じゃあ、鍵が……」
「外から掛けられるタイプじゃない。中からしか掛からない」
その言葉に、美咲は背筋が寒くなった。
教師は何でもないことのように言った。
「古いから、故障していたのかもしれないな」
「先生」
彩香が言った。
「鏡は?」
「鏡?」
「トイレの鏡です」
教師は少し考えた。
「……鏡?」
「女の子が映ってたんです」
教師は黙った。
そして、ほんの一瞬だけ。
困ったような顔をした。
「そんなもの、見なかったけどな」
その夜。
美咲はなかなか眠れなかった。
布団に入っても、あの鏡が頭から離れない。
おかっぱ頭。
赤いスカート。
そして、最後に聞いた声。
――遊ばないの?
午前一時を過ぎた頃だった。
美咲のスマートフォンが鳴った。
彩香からだった。
『起きてる?』
美咲はすぐに返信した。
『起きてる』
しばらくして、彩香から写真が送られてきた。
学校のトイレだった。
三番目の個室。
扉は閉じている。
写真の中央に、小さな女の子が立っている。
おかっぱ頭。
赤いスカート。
美咲は息を止めた。
『これ……何?』
送信する。
すぐに既読がついた。
『分からない』
『どうやって撮ったの?』
『撮ってない』
美咲は画面を見つめた。
『じゃあ誰が?』
しばらく返信はなかった。
やがて。
『美咲』
『何?』
『今日、私たちが呼んだのって』
『うん』
『本当に花子さんだったのかな』
美咲は、その意味が分からなかった。
『どういうこと?』
彩香から返事が来た。
『だって、花子さんって名前は私たちが呼んだだけでしょ』
美咲は画面を見つめた。
その瞬間。
スマートフォンから、
コン。
という音がした。
美咲は驚いて画面を見た。
新しいメッセージが届いていた。
彩香ではない。
知らない番号だった。
メッセージは一行だけ。
『あの子は花子じゃないよ』
美咲の指が震えた。
すぐに続けて、もう一通。
『花子さんって呼ばれたから、花子さんになったの』
美咲はそのメッセージを見つめた。
そして。
最後の一通が届いた。
『次は、あなたの学校で呼んで』
その瞬間。
部屋の外から、
コン。
と音がした。
美咲は動けなかった。
もう一度。
コン。
そして。
三回目。
コン。
美咲はゆっくりとスマートフォンを伏せた。
家の中に、トイレは一つしかない。
自分の部屋から廊下を挟んだ先。
美咲は布団の中で息を殺していた。
すると。
トイレのほうから。
小さな女の子の声が聞こえた。
「花子さん」
美咲は目を閉じた。
違う。
呼んだのは、自分ではない。
なのに。
声は続いた。
「遊びましょ」
しばらく沈黙があった。
そして。
トイレの中から。
小さな声で。
「……はーい」
と返事がした。
翌朝。
美咲の母親が、廊下で奇妙なものを見つけた。
トイレのドアの前に、赤い子供用の靴が片方だけ置かれていたという。
もちろん、美咲の家にそんな靴はない。
母親が美咲に尋ねても、何も知らないと言うだけだった。
そして、その日から美咲は、あの学校の怪談について誰にも話さなくなった。
彩香とも、その話をしなくなった。
ただ、一つだけ。
美咲には気になることがあった。
あの日、二人が呼びかけたのは確かに、
「花子さん、遊びましょ」
だった。
だから、鏡の中にいた女の子は、花子さんだったのだろう。
そう考えれば、すべて説明がつく。
けれど。
美咲が最後まで理解できなかったのは。
あの女の子が、なぜ自分たちに向かって、
「花子さん」
と呼びかけたのか。
ということだった。
それから数年後。
美咲は母校を訪れる機会があった。
校舎は改修され、トイレも新しくなっていた。
三階の女子トイレへ行ってみる。
そこには、昔の三番目の個室などなかった。
すべて新しい造りになっている。
美咲は少し安心した。
もう、あの噂は終わったのだ。
そう思った。
そのとき。
トイレの奥から、小さな声がした。
「ねえ」
美咲が振り返る。
誰もいない。
「花子さんって、知ってる?」
美咲は答えなかった。
その場から立ち去ろうとした。
すると。
背後で、個室の扉が一つだけ閉まった。
バタン。
美咲は足を止めた。
ゆっくり振り返る。
一番奥の個室。
その扉には、新しい赤いペンキで、子供の文字が書かれていた。
――はなこ。
美咲は息をのんだ。
そして、気づいた。
文字の下に、もう一つ。
小さな文字がある。
――ここにいるよ。
美咲は、その場から逃げるように廊下へ出た。
背後から、扉を叩く音が聞こえた。
コン。
一回。
コン。
二回。
そして。
コン。
三回。
誰もいないはずのトイレから。
幼い女の子の声が響いた。
「花子さん、遊びましょ」
美咲は振り返らなかった。
ただ、廊下を走った。
その日から、彼女は二度と母校のトイレに入らなかった。
けれど。
今でも時々、思うことがある。
あの日。
自分たちが呼び出したのは、本当に「花子さん」だったのだろうか。
それとも。
「花子さん」という名前を与えられることで、初めてそこに存在することができる何かが、ずっと昔から、あの個室の中で待っていたのだろうか。
そしてもし。
誰かが今も、どこかの学校で三番目の個室を三回叩いているのなら。
その扉の向こうから返事をするのは。
本当に「花子さん」なのだろうか。
この物語のベースとなったトイレの花子さんの都市伝説、その起源と真相はこちら。
