大学構内の古い掲示板の隅に、その求人票は貼られていた。
「短期アルバイト募集。日給12万円。医療関連施設内軽作業。守秘義務厳守。学生限定」
直人は、その金額を二度見した。仕送りが途絶えがちな今の生活では、喉から手が出るほどの金額だった。家賃はもう2か月滞納していて、大家からは毎日のように催促の電話が来る。友人に借りられる金額にも、とっくに限界が来ていた。
連絡先はメールアドレスだけ。会社名も、詳しい業務内容も書かれていない。紙は黄ばんで角が丸まり、いつから貼られているのかも分からなかった。
怪しい、とは思った。だが、今月の家賃すら払えない直人は、震える指でそのアドレスにメールを送った。「求人票を見ました。応募したいです」とだけ打ちこんで。
返信は、すぐに来た。まるで、送信を待ち構えていたかのような速さだった。指定された日の夜10時に、大学病院の裏手にある通用口へ来るように、とだけ書かれていた。
当日、直人を出迎えたのは、白衣を着た初老の男だった。顔に表情というものがなく、何を考えているのかまるで読み取れない。男は名乗らずに、一枚の誓約書を差し出した。
「本日の業務内容について、一切他言しないこと」
直人は、そこに名前を書いた。ペン先が、わずかに震えていた。
案内されたのは、地下の一室だった。エレベーターは使わず、薄暗い階段を何階分も下りていく。ひんやりとした空気と、鼻の奥を刺す薬品の匂いが、一段下りるごとに強くなっていった。
部屋の中央には、ステンレスでできた、大人の背丈ほどの深さがありそうなプールが据えられていた。天井の明かりは一つだけで、部屋の隅は闇に沈んでいる。プールを満たした、わずかに黄ばんだ液体の奥に、白いものが、いくつもぼんやりと沈んでいた。
人の形をしていた。どれも、うつ伏せだった。
「今日の仕事は、これを見ていてもらうだけだ」
男は、長い木の棒を直人に手渡した。
「時々、浮いてこようとする。そうしたら、この棒で、沈めてやってくれ。顔が出ないように」
それだけ言うと、男は部屋を出ていった。足音が階段を上っていき、やがて聞こえなくなった。
直人は、一人きりで残された。
そのときになって、ようやく思い出した。病院の地下で、薬品のプールに浮かんでくる死体を、棒で沈めるだけの仕事。サークルの先輩たちが、酒の席で笑いながら話していた、死体洗いのバイトの噂を。あのとき、直人も一緒に笑っていた。
部屋には時計がなかった。液面は、時折、小さな波紋を立てる。そのたびに、直人の心臓が跳ね上がった。
最初にそれが浮いてきたのは、どれくらい時間がたったころだったか。液面がゆっくりと盛り上がり、白くふやけた背中が、水面のすぐ下まで上がってきた。
直人は目をそらしながら、棒の先を当てて、押した。ぐにゃりとした手応えがあった。棒を引き上げると、先に、濡れた紙のようなものがまとわりついていた。皮膚だった。
直人は、プールの縁に吐いた。
それからも、何度も浮いてきた。そのたびに、直人は棒で沈めた。沈めるたびに、少しずつ、手応えに慣れていく自分が怖かった。
明け方近くだったと思う。
いちばん奥の一体が、また浮いてきた。直人が棒を当てると、液面の下から、白い手が伸びてきた。指が、棒の先をつかんだ。
ふやけた指は、力を入れたとたんに、皮ごとずるりとはがれた。それでも、指は離れなかった。骨の見えかけた指で、棒をつかんだまま、それは、ゆっくりと顔を上げようとしていた。
顔が出ないように。
直人は、体重をかけて、棒を押しこんだ。何かがつぶれる感触が、棒を伝って手のひらに響いた。白い手が、ほどけるように離れて、底へ沈んでいった。
小さな泡が一つだけ、液面に上がってきて、はじけた。
朝の6時になると、初老の男が戻ってきて、黙って現金の入った封筒を差し出した。直人はそれを受け取ると、逃げるように建物を出た。地上の空気は生ぬるく、街の音が、やけに遠くに聞こえた。
封筒の中には、確かに12万円が入っていた。
それから1週間、直人はまともに眠れなかった。目を閉じると、あの部屋の匂いと、棒を押しこんだときの感触がよみがえってくる。手のひらを何度洗っても、あの薬品の匂いが、指の間から消えなかった。
一度だけ、友人にこのアルバイトのことを話そうとしたことがある。飲みの席で、口を開いた瞬間、喉の奥が締めつけられるように動かなくなった。息が、できなかった。まるで、あの日書いた誓約書が、今も体の内側から喉を押さえつけているようだった。
その夜も、指の匂いが気になって眠れなかった。直人は洗面台の栓をして、水をためた。石けんで洗っても落ちないなら、せめて水に浸けておこうと思った。
両手を沈めたまま、ぼんやりと水面をのぞきこんでいると、水の底に、白いものが見えた。
ゆっくりと、浮いてくる。白くふやけた顔が、水面のすぐ下まで上がってくる。
顔が出ないように。
あの男の声が、耳の奥で聞こえた。直人の手は、考えるより先に、その後頭部を押さえていた。
鼻の奥に、あの薬品の匂いが流れこんできた。
押さえているのは、自分の頭だった。
それでも、手は離れなかった。浮いてこようとするたびに、直人の手は、静かに、その頭を沈めた。
沈めてやらなければ。
それだけを考えていた。
この物語のもとになった死体洗いのアルバイトの都市伝説、その起源と真相はこちら。
死体洗いのアルバイトの都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

