※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
夏合宿の最終日、消灯時間を過ぎても、拓海たちのテントは静かにざわめいていた。
昼間は湖でカヌーをして、夜は肝試しの企画で山道を歩かされた。くたくたのはずなのに、誰も眠る気になれない。興奮と疲労が入り混じった、独特な空気がテントの中に満ちていた。
「なあ、まだ寝るなよ。とっておきの話があるんだ」
そう言い出したのは、三年生の哲也先輩だった。拓海たち一年生にとって、哲也先輩は合宿のリーダー格で、いつも冗談ばかり言っている陽気な人だった。だからこそ、彼が声のトーンを落として話し始めたとき、その変化に誰もが敏感に反応した。
「じゃあ、そろそろ話すか。牛の首」
その一言で、テントの空気が変わった。一年生の何人かは聞いたことがあるらしく、顔をこわばらせた。拓海は知らなかった。ただの怪談だろうと、軽い気持ちで先輩の顔を見つめていた。
「これ、話した奴も、聞いた奴も、おかしくなるって言われてる話なんだけどさ」
哲也先輩は笑いながらそう前置きした。誰かが「じゃあやめとこうよ」と冗談めかして言ったが、その声は思ったより上ずっていた。周りの何人かも、笑いながらも視線を交わし合っている。誰も本気で止めようとはしなかった。むしろ、その禁忌めいた空気が、かえって好奇心を煽っているようだった。
「大丈夫、大丈夫。ただの話だから」
哲也先輩はそう言うと、懐中電灯を一つだけ残して他の光源を消させた。円陣の中央に浮かぶ小さな灯りが、全員の顔に不気味な陰影を作り出す。哲也先輩はゆっくりと息を吸い、声のトーンを落として語り始めた。
拓海は最初、その内容を普通に聞いていたはずだった。どこかの村の話、古い井戸の話、誰かが何かを見つけてしまう話――そういう筋書きだったと思う。哲也先輩の語り口は巧みで、拓海は自然と話に引き込まれていった。
だが、話が進むにつれて、拓海の中で何かがおかしくなっていった。
哲也先輩の声が、少しずつ震え始めていた。楽しそうに話していたはずなのに、いつの間にか表情から余裕が消えていた。目が、懐中電灯の光を反射して、妙に濡れたように光っている。額には、うっすらと汗が浮かんでいた。
「それで……その村人は……」
言葉が、途切れ途切れになっていく。周りの一年生たちも、いつの間にか誰も声を発さなくなっていた。テントの中の空気が、外の虫の声すら聞こえなくなるほど、重く沈んでいく。誰かの息遣いだけが、やけに大きく聞こえた。
拓海は、話の内容を理解しようとした。だが、どうしてか、言葉が頭の中でうまく像を結ばない。哲也先輩が何を言っているのか、確かに耳には届いているのに、意味だけがすり抜けていく。まるで、理解することを、自分の頭のどこかが拒んでいるかのようだった。
隣に座っていた同期の翔太が、いつの間にか両手で耳を塞ぐようにしていることに、拓海は気づいた。反対側に座る後輩の顔も、青ざめて強張っている。誰も、この話をやめさせようとはしない。まるで、途中でやめることの方が、もっと恐ろしいことであるかのように。
「――だから、その牛の首は……」
哲也先輩の声が、そこで止まった。
拓海が顔を上げると、先輩は懐中電灯の明かりの中で、白目を剥いて倒れていた。手足がびくびくと痙攣し、口の端からわずかに泡のようなものが漏れている。
一瞬、誰も動けなかった。数秒後、我に返った誰かが悲鳴に近い声を上げ、テントの中は一気に騒然となった。引率の先生が呼ばれ、哲也先輩は救護テントへ運ばれた。幸い、しばらくすると意識を取り戻した。
だが、目を覚ました哲也先輩は、自分が何を話していたのか、まったく覚えていないと言った。
「牛の首の話をしようとしたのは覚えてる。でも、その先、何を喋ったのか……全然思い出せないんだ」
先輩の目には、心底困惑した色が浮かんでいた。演技をしているようには、とても見えなかった。
拓海も、必死に記憶を辿ろうとした。だが、あの夜聞いていたはずの物語は、輪郭だけを残して、内容のほとんどが霧の中に溶けてしまっていた。井戸があった。誰かが何かを見た。それだけしか、思い出せない。
不思議なことに、あの場にいた他の一年生たちも、口を揃えて同じことを言った。「内容は思い出せない。でも、聞いている間、ものすごく怖かったことだけは覚えている」。まるで、恐怖の感触だけが記憶に焼き付いて、その原因となった物語だけが、きれいに抜け落ちてしまったかのようだった。
合宿から帰ってからも、拓海は時々、あの夜のことを思い出そうとする。だが、思い出そうとすればするほど、頭の奥がぼんやりと痛み始めて、それ以上は考えられなくなってしまう。まるで、思い出すこと自体に、何らかの制限がかけられているかのようだった。
哲也先輩は今でも、時々あの夜のことを話題にする。「あれ、結局なんだったんだろうな」と。だが、その声には、以前のような陽気さは戻ってきていない。
もしあなたが、誰かから「牛の首を知っているか」と聞かれたら。その先を、本当に聞きたいと思うだろうか。
この都市伝説の起源や、なぜ内容が語り継がれないのか気になった方は、解説記事もあわせてご覧ください。
※この物語はフィクションです。

