※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
「本当に、もう何も入れないようになってるんだな」
懐中電灯の光の輪の中で、コンクリートブロックが暗闇を分厚く塞いでいるのが見えた。大学時代から映像制作を趣味にしている慎也は、三脚を立てながら小さく笑った。廃墟や心霊スポットを巡っては動画にまとめる、それが彼の週末の楽しみだった。今回同行しているのは、サークルの後輩である亮だ。臆病なくせに好奇心だけは人一倍強く、こういう場所に誘うと必ずついてくる。
「先輩、本当にここ大丈夫なんですか。ネットで見たんですけど、ここって……」
「知ってるよ。犬鳴峠事件だろ」
慎也はカメラの角度を調整しながら答えた。一九八八年、地元の若者グループが知人の男性を拉致し、このトンネルの中で暴行を加えたのち、火を放って殺害したという事件だ。福岡では知らない者がいないほど有名な話で、慎也自身も高校時代に先輩から聞かされた記憶がある。
「三十年以上前の話だぞ。今さらビビることないだろ」
「でも、その人の霊がまだここにいるって……」
「じゃあ動画映えするな」
軽口を叩きながらも、慎也は内心、峠に着いてからずっと感じている違和感を無視していた。街灯は一本もなく、車を停めた瞬間から空気の重さが変わったような気がしていたのだ。木々は風もないのに絶えず葉擦れの音を立て、谷の奥からは正体のわからない獣の声が響いてくる。人の気配は皆無なのに、どこかから見られているような感覚だけが、じわじわと背中に張り付いていた。
「じゃ、撮るぞ」
慎也はカメラを回し始めた。ブロック壁、ひび割れ、雑草に埋もれかけた警告看板。そして最後に、人の頭がようやく入るほどの小さな隙間にレンズを向けた。
「先輩、その隙間、覗くと見えるらしいですよ」
「何が」
「血まみれの男、だって」
「ありがちだな」
そう言いながらも、慎也はレンズをその隙間へゆっくりと近づけていった。ファインダー越しに覗き込む。真っ黒な奥に、何も見えない。当たり前だ、と自分に言い聞かせた瞬間、モニターの映像が一瞬だけ乱れた。ノイズが走り、画面が黒くなり、また元に戻る。
「電波悪いのかな」
「ここ、圏外ですよ」
亮がスマートフォンを見せる。画面には圏外の表示。だが、その表示が唐突に消え、また現れ、何度も点滅を始めた。慎也も自分のスマートフォンを確かめる。同じだった。画面が勝手に明滅し、何かの通知が届いたように震えるのに、開いても何も表示されない。
「帰ろうか」
亮の声から、さっきまでの軽さが消えていた。慎也も頷きかけた。その時だった。
ブロックの隙間の奥で、何かが動いた。
暗闇に目が慣れていたからこそ気づいた、微かな動き。人影だった。ゆっくりと、しかし確かに、こちらへ近づいてくる。慎也は思わず息を止めた。
「……誰かいるのか?」
返事はない。懐中電灯を向けても、光は隙間の奥までほとんど届かない。それでも影だけは近づいてくる。一歩、また一歩。あり得ない話だった。入口はコンクリートで完全に塞がれている。反対側から歩いてきたとしても、この場所まで人が辿り着ける道は存在しないはずだった。
それでも、影は止まらなかった。
やがて隙間の真正面で立ち止まる。慎也は無意識にレンズを構え直し、ファインダーを覗いた。
そこに、顔があった。
血で汚れた男の顔だった。額から頬にかけて黒く乾いた筋が幾筋も流れ、焼け焦げたような襟元だけが闇の中に浮かび上がっている。男は瞬きひとつしなかった。ただ、じっとこちらを見ていた。
慎也は反射的にカメラを下ろした。だが肉眼で見ると、そこには誰もいない。
「……今、人が見えた」
「先輩、顔真っ青ですよ」
もう一度ファインダーを覗く。男はまだそこにいた。今度はさっきよりも近い。隙間いっぱいに顔を寄せてくる。目だけが異様に白く、瞳の部分がどこにあるのかわからなかった。
慎也が思わず後ずさった、その瞬間。
カメラのスピーカーから、低い声が漏れた。
「帰れ」
耳元で囁かれたような、それでいて地の底から響いてくるような声だった。一瞬、聞き間違いかと思った。だが、また聞こえた。
「帰れ」
今度は複数の声が重なっていた。ひとつではない。何人分もの、しわがれた声が同時に呟いている。声は徐々に大きくなり、囁きから呻きへと変わっていく。慎也はその場から動けなかった。恐怖で足がすくむというのはこういうことなのか、と頭のどこかで冷静に考えている自分がいた。亮はすでに震える声で何かを口にしていたが、内容までは聞き取れなかった。
やがて、隙間の奥の男の顔がゆっくりと横に傾いた。まるで慎也の反応を面白がるように。その口が、初めて動いた。
「殺してやる」
その一言で、二人の身体はようやく金縛りから解けた。慎也はカメラを掴んだまま、亮の腕を引いて走り出した。砂利を踏む音だけが夜道に響く。車に飛び込み、震える手でエンジンをかけた。
「早く出して」
ライトが廃道を照らす。何もいない、はずだった。慎也はアクセルを踏み込んだ。
山道を下り始めて数分。亮が掠れた声を出した。
「……先輩、後ろ」
ルームミラーには何も映っていない。
「違う、リアガラス」
振り返ると、白い手形がびっしりと押し付けられていた。ひとつではない。二つ、三つ、四つ。しかも内側からではなく、外側から押し付けられたように、無数の手形がガラスの表面に浮かんでいる。慎也は急ブレーキを踏みそうになるのを堪えた。
「誰か、追いついてきたのか」
あり得ない。ここまで誰ともすれ違っていないし、山道を全速力で走る車に、徒歩で追いつける人間などいるはずがない。亮は振り返ることができず、ただ前だけを見つめていた。
「消えてくれ……」
慎也が呟いた直後、手形がゆっくりと動いた。まるで見えない指がガラスの上を滑らせるように、跡が下へと流れていく。湿った音が聞こえた気がした。
その瞬間、消えていたはずのカーナビが突然起動した。画面は真っ黒のまま、音声だけが流れ出す。
「この先、目的地です」
登録した覚えなどない。地図も表示されない。ただ音声だけが繰り返す。
「目的地です」
「目的地です」
「目的地です」
「切ってください、それ」
亮がボタンを連打するが、消えない。画面の黒の中に、ゆっくりと赤い点がひとつ浮かび上がった。現在地でも目的地でもない、その一点だけが、じっとこちらを見ているように感じられた。
慎也がハンドルを強く握りしめたその時、ナビはぷつりと切れた。
車内に、痛いほどの静寂が満ちた。二人とも何も話さなかった。麓に下り、街灯の明かりが見えてきた頃には、リアガラスの手形も跡形なく消えていた。
「……夢だったのかな、俺たち」
亮が力なく呟く。慎也は答えなかった。答えられなかった。
その夜、自宅に戻った慎也は、撮影した映像を確認した。封鎖された入口、揺れる木々、二人の会話。そこまでは普通だった。問題のシーンになると、隙間を映した映像に人影は映っていなかった。血まみれの男の姿もない。だが、ただひとつだけ、映像には録音されていた音があった。ノイズの奥に、誰かが呟く声が確かに残されていたのだ。音量を最大まで上げて聞き直したとき、慎也は理解した。
「……まだいる」
ひとつの声ではなかった。何人もの声が、同じ言葉を重ねて呟いていた。慎也はそのデータを二度と開かないと決め、フォルダごと削除した。
数日後の深夜、亮から電話がかかってきた。
「先輩、あの映像、消えてませんでした」
「削除したはずだ」
「わかってます。でも……最後に、新しい映像が増えてるんです」
慎也の背筋が凍りついた。
「誰が撮った」
受話器の向こうで、長い沈黙があった。それから、消え入りそうな声が答えた。
「ブロックの隙間の……向こう側からです」
電話はそこで切れた。何度かけ直しても、二度と繋がることはなかった。
翌日、慎也は亮のアパートを訪ねた。しかし部屋はもぬけの殻で、テーブルの上にはカメラだけがぽつんと残されていた。メモリーカードには、問題の映像だけが記録されていたという。だが慎也は、それを最後まで見る勇気を、今も持てずにいる。
今でも犬鳴峠を通るたび、封鎖された旧トンネルの前を車で通過する人の中には、不意にスマートフォンの画面が点滅することがあるという。理由はわからない。ただ、その瞬間だけは、決してブロックの隙間を見てはいけないと言われている。
もし暗闇の奥から、誰かと目が合ってしまったなら――その瞬間の記録は、今度こそ向こう側の誰かのものになるのかもしれない。
この物語の舞台となった旧犬鳴トンネルの心霊スポット情報、その歴史と真相はこちら。
※この物語はフィクションです

