※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
塾の帰り道は、いつも遠回りをしていた。
明かりの多い通りを選んで、コンビニの前を通って、それでも十五分は余計にかかる道。でも、あの噂を聞いてから、近道は使えなくなった。
「知ってる? 口裂け女」
先週、クラスの誰かがそう言い出してから、教室の空気が少し変わった。マスクをした女が、夜道で「私、きれい?」と聞いてくる。「きれい」と答えると、マスクを外して見せてくる。裂けた口を。耳まで、裂けた口を。
くだらない、と思っていた。思っていたはずだった。
その夜、由紀は塾のプリントを鞄に詰めながら、いつもより教室を出るのが遅くなった。時計の針は九時を少し回っていた。母には九時には着くと言ってあった。急がなければ。
遠回りの道を選ぶ余裕はなかった。近道の、あの細い路地を抜けることにした。
街灯は三本のうち一本しか点いていない。もう一本は点滅していて、地面に落ちる影が瞬きのたびに伸びたり縮んだりする。由紀は鞄の紐を握りしめて、早足で歩いた。
足音が、二つ聞こえた気がした。
振り返る。誰もいない。気のせいだ。そう自分に言い聞かせて、また前を向く。
路地の先、街灯の消えた暗がりに、誰かが立っていた。
長い髪。トレンチコートのような、丈の長い上着。そして――顔の下半分を覆う、大きなマスク。
由紀の足が止まった。逃げようとした足が、動かなかった。
「ねえ」
女の声は、思っていたより静かだった。囁くような、それでいて逃げ場のない声。
「私、きれい?」
由紀は答えなかった。答えられなかった。喉の奥が固まって、声にならない。
「ねえ。私、きれい?」
もう一度、同じ問いが繰り返される。今度は、さっきより近い。女がこちらへ、一歩踏み出したのがわかった。
由紀の脳裏に、昼間クラスメイトが言っていた言葉がよぎった。「ポマードって三回唱えるといいらしいよ」「べっこう飴を投げると逃げられるって」。でも、そんなもの持っていない。ポマードなんて言葉、何のことかもよくわからない。
答えなければ。何か、答えなければ。
「き、きれい……です」
震える声で、そう答えてしまった。
女が、笑ったような気配がした。マスクの向こうで、目が細くなる。
「これでも……?」
マスクに手がかかる。ゆっくりと、それが外されていく。
由紀は目を逸らせなかった。街灯の点滅する光の中で、女の口元が露わになっていく。唇の端が、耳の近くまで、裂けている。まるで笑い続けることしかできない顔のように、そこだけが大きく開いている。
悲鳴を上げる前に、由紀の体が勝手に動いた。踵を返して、来た道を全力で駆け出す。
背後で、何かが追いかけてくる気配がした。振り返る余裕はない。ただ、足音が――自分のものよりずっと速い足音が、迫ってくる。
塾の看板の明かりが見えた瞬間、由紀は路地を飛び出して、大通りに躍り出た。人通りのある場所まで来て、ようやく振り返る。
路地の暗がりには、もう誰もいなかった。
家に帰り着いてからも、由紀はしばらく震えが止まらなかった。母には「走って帰ってきたから」とごまかした。
その夜、布団に入ってからも、あの声が耳から離れなかった。
「私、きれい?」
翌朝、学校で由紀はクラスメイトに昨夜のことを話そうとした。けれど、話し始めた途端、喉の奥がおかしくなった。声が、うまく出ない。まるで、答えを間違えた罰であるかのように。
由紀は今も、あの路地を避けて塾に通っている。そして、もし今夜、あなたが人気のない夜道を歩いていて、マスクをつけた誰かに呼び止められたなら――。
「私、きれい?」
そう聞かれたとき、あなたなら、何と答えるだろうか。
この都市伝説の起源や、なぜここまで社会現象になったのか気になった方は、解説記事もあわせてご覧ください。
※この物語はフィクションです。

