塾から帰る途中の公園に、電話ボックスがひとつだけ残っている。滑り台とブランコの奥、街灯の下に立つガラス張りの箱で、中には緑色の公衆電話が一台入っている。扉には、「この公衆電話は十月末で撤去します」という紙が貼ってあった。
「ねえ、なくなる前にやっとこうよ。さとるくん」
塾の帰り道、芽衣がそう言い出した。公衆電話に十円玉を入れて、自分のスマホにかける。電話がつながったら「さとるくん、さとるくん、おいでください」と唱える。そうすると、あとでさとるくんから電話がかかってきて、質問に答えてくれる。芽衣が前の晩に、動画で見たという噂だった。
「莉子がやってよ。私、十円玉持ってないし」
本気にしていたわけではない。芽衣が怖がる顔を見たかっただけだ。私は財布から十円玉を出して、受話器を取った。
自分の番号を押すと、ポケットの中でスマホが震えた。画面には「公衆電話」と出ていた。私は左手でスマホに出て、右手の受話器に向かって唱えた。
「さとるくん、さとるくん、おいでください」
左手のスマホから、少し遅れて、私の声が聞こえた。けれど、その声は「おいでください」のあとも、しばらく何かを話し続けていた。小さすぎて、聞き取れなかった。
私は受話器を置いた。芽衣は「何も起きないじゃん」と笑っていた。芽衣には、あの続きの声は聞こえていなかったらしい。私は何も言わずに、一緒に笑った。
その夜、一時十二分に、スマホが鳴った。
画面には「公衆電話」と出ていた。
寝ぼけたまま出た。声はしなかった。その代わり、電話の向こうで、誰かがこいでいるように、ブランコの鎖がじゃらん、じゃらんと鳴っていた。その奥で、「夕焼け小焼け」が流れていた。小学生のころ、あの公園で毎日聞いた、帰りの合図のチャイムだった。
あのチャイムは、夕方の五時にしか鳴らない。夜中に、誰もいない公園で、ブランコが揺れているはずもなかった。
電話は、ぷつりと切れた。
次の日、芽衣にその話をすると、芽衣はスマホでさとるくんの噂を調べ直して、だんだん黙り込んだ。
電話は一度では終わらない。かかってくるたびに、さとるくんは少しずつ近づいてくる。すぐ後ろまで来たら、質問をひとつだけしていい。そのとき、絶対に振り返ってはいけない。振り返った者は、連れていかれる。質問をしなかった者も、連れていかれる。
「……電話、出なきゃいいんじゃない?」
芽衣は泣きそうな顔で言った。けれど、質問ができるのは電話に出ているときだけだ。電話に出なければ、質問をしないまま、後ろに立たれることになる。私は、出るしかなかった。
二日目の夜も、一時十二分に鳴った。
電話の向こうで、犬が吠えていた。うちの二軒先の角の家で飼われている、コロの声だった。コロは私を見ても、尻尾を振るだけの犬だ。その声が、喉が裂けそうなほど吠え続けて、急に「きゃん」と鳴いて、止まった。
翌朝、角の家の前を通ると、犬小屋の前に鎖だけが伸びていた。鎖の先には首輪がついたままで、その内側が赤黒く濡れていた。首輪のまわりの砂利に、茶色い毛のついた皮が、ちぎれて張りついていた。
三日目の夜は、門の音だった。
きい、と鳴った。父がいつか油をさすと言ったまま、ずっと放ってある、うちの門の音だった。
それきり、電話の向こうは静かになって、しばらくして切れた。私は布団の中で、朝まで玄関のほうに耳をすませていた。何の音もしなかった。朝、門は、開いていた。
その日の放課後、芽衣と二人で、質問を決めた。
「いつ、いなくなってくれますか」
いなくなる日がわかれば、それまで耐えればいい。芽衣がそう言って、私もそれがいちばんいいと思った。
四日目の夜、私は部屋の電気をつけたまま、壁に向かって机に座った。ドアも窓も、背中の側にある。窓のほうを向かなかったのは、ガラスに何かが映るのを見たくなかったからだ。
一時十二分。スマホが鳴った。
出ると、電話の向こうで、こち、こち、と小さな音がしていた。
机の上の時計の、秒針の音だった。目の前の時計と、電話の向こうの音が、少しずれて聞こえた。こち、こち。それが、だんだん重なっていった。
ぴったり重なったとき、首の後ろに、冷たい息がかかった。
「いま、きみの、うしろに、いるよ」
男の子の声だった。電話からと、首のすぐ後ろからと、同じ声が二重に聞こえた。息は湿っていて、古い十円玉のような、錆びたにおいがした。
私は、前の壁を見たまま、決めておいた質問を言った。
「いつ、いなくなってくれますか」
少しだけ、間があった。
「きみが、ふりかえったら」
電話は切れた。
首の後ろの息は、消えなかった。
私は壁を見たまま、朝まで動かなかった。時計の秒針と、後ろの息が、ずっと同じ速さで続いていた。
七時すぎに、背中のほうでドアが開いた。
「莉子、遅刻するよ」
母の声だった。足音が私の横まで来た。母は横から私の顔をのぞきこんで、それから私の肩の、少し上のあたりを見た。母の目が、そこで止まった。
「……ねえ、今」
母はそこまで言って、首を振った。「気のせいね。顔色悪いよ、あんた」
母がそこに何を見たのか、私は聞けなかった。
あれから、私は一度も振り返っていない。後ろから名前を呼ばれても、振り向かずに、前に回ってきてもらう。教室では、いちばん後ろの席にしてもらった。プリントを後ろへ回すときに、振り向かなくてすむように。
今週、公園の電話ボックスが撤去された。それでも、ゆうべ一時十二分に、スマホが鳴った。画面には「公衆電話」と出ていた。
私は出なかった。着信音が鳴っているあいだ、首のすぐ後ろで、くすくすと笑う声がしていた。
首の後ろの息は、日に日に近くなっている。ゆうべは、耳たぶに、冷たい唇が触れた。
私は、あと何日、振り返らずにいられるだろう。
この物語のもとになったさとるくんの都市伝説、その起源と真相はこちら。
さとるくんの都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

