引っ越しの前の晩、由美は実家の押し入れの奥から、古い西洋人形を見つけた。
祖母にもらった人形だった。金色の巻き毛は色が抜けてぱさぱさになり、青いガラスの目の片方は、白く濁っていた。水色のドレスの裾はほつれ、唇には、子どものころの由美が赤いマジックで塗った跡が、はみ出したまま残っていた。
「メリーさん」と呼んでいた。由美が勝手につけた名前だ。小学校に上がるまで、毎晩この人形を抱いて眠り、人形の声をやって一人で遊んでいた。ささやくような、細い、高い声で。わたし、メリーさん。
「あんた、それで延々と一人でしゃべってたのよ。ちょっと気味が悪いくらい」
台所から母が笑った。
新しい部屋に、こんな人形を置く場所はない。初めての一人暮らしで、荷物はできるだけ減らしたかった。少し迷ってから、由美は人形をゴミ袋に入れた。袋に押し込むとき、人形の首がかくんと傾いて、濁ったほうの目が、ビニール越しにこちらを向いた。由美は顔を見ないようにして袋の口を固く縛り、実家の前の集積所に置いた。
翌日の夜、新しいマンションで段ボールをひとつ片づけたところで、スマホが鳴った。知らない番号だった。
「もしもし」
「わたし、メリーさん」
細い、ささやくような、高い声だった。いたずらだと思って、切ろうとした。
「いま、ゴミすてばにいるの」
電話の向こうで、低いエンジンの音と、何かが押しつぶされる重い音がしていた。ゴミ収集車の音だった。電話はそこで切れた。
人形を捨てたことは、誰にも話していなかった。知っているのは、母だけだった。
次の日の夕方、同じ番号から、また電話が来た。
「わたし、メリーさん。いま、えきにいるの」
声の後ろで、駅のアナウンスが流れていた。聞き覚えのある駅名だった。新しいマンションの、最寄り駅だった。
由美は電話を切って、しばらく動けなかった。怖かったのは、駅の名前だけではなかった。
その声に、聞き覚えがあった。
ささやくような、細い、高い声。語尾を少しだけ伸ばす、子どもっぽい話し方。録音で聞く自分の声が他人のように聞こえるのと同じで、すぐには気づけなかった。けれど、気づいてしまうと、もうそうとしか聞こえなかった。
それは、子どものころの由美が、人形の声をやるときの声だった。
母に電話した。いたずら電話が来ること、人形のこと。母は「疲れてるのよ。引っ越しで気が張ってるんでしょう」と笑ったが、由美が「その声、私が昔やってた人形の声にそっくりなの」と言うと、電話の向こうで黙り込んだ。
その夜、九時を過ぎたころ、また電話が鳴った。
「わたし、メリーさん。いま、あなたのおうちのまえにいるの」
声の後ろで、ぴんぽん、と短いチャイムが鳴った。マンションのエントランスの自動ドアが開くときの音だった。由美は毎日、その音を聞いて部屋に帰ってくる。
由美はカーテンの隙間から下をのぞいた。エントランスの前の通りには、街灯に照らされた誰もいない道があるだけだった。それなのに、自動ドアのガラス越しに見えるエントランスの明かりが、ついたまま消えなかった。誰かが、センサーの前に立ち続けているように。
一睡もできなかった。スマホの電源を切ろうとして、指が止まった。電源を切っているあいだに、何かが近づいてきたら。そう思うと、どうしても切れなかった。
三日目の夜、部屋の電気を消して布団に入った直後に、スマホが鳴った。
出たくなかった。それでも、指が勝手に通話のボタンを押していた。
「わたし、メリーさん」
声は、今までよりずっと近かった。電話の向こうからではなく、耳のすぐ横で、息がかかるほど近くでささやかれたように聞こえた。
「いま、あなたのうしろにいるの」
由美は、振り返った。
誰もいなかった。暗い部屋に、積み上げた段ボールがあるだけだった。
息を吐いて、前を向いた。カーテンの開いた窓ガラスに、暗い部屋と、布団の上に座る自分の姿が映っていた。
その肩の上に、金色の巻き毛があった。
由美の肩に顎を乗せるようにして、人形の顔が、ガラスの中からこちらを見ていた。片方の目は白く濁り、唇には、はみ出した赤いマジックの跡があった。その唇が、ゆっくりと動いた。
わ、た、し、め、り、い、さ、ん。
もう一度振り返った。誰もいなかった。窓を見た。人形は、まだ肩の上にいた。
気がつくと、朝だった。窓には、自分しか映っていなかった。
それから、メリーさんからの電話は来なくなった。
その代わり、ときどき、電話の相手に言われるようになった。「近くに子どもいる? いま、小さい女の子の声がしたけど」。由美の部屋には、誰もいない。
昨日、母から電話があった。
「由美、さっき電話くれた?」
かけていない、と答えると、母はしばらく黙った。
「あんたの番号から、かかってきたのよ。出たら、子どもの声で、『わたし、メリーさん』って」
母の声が、少し震えていた。
「『いま、えきにいるの』って。……あの声、あんたが小さいころにやってた、人形の声にそっくりだった」
実家の最寄り駅から、家までは、歩いて十分ほどだ。
母は今、あの家に、ひとりで住んでいる。
この都市伝説の起源や、なぜ今も語り継がれているのかは、解説記事にまとめています。
メリーさんの電話の都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

