※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
深夜二時、健太はコンビニのアルバイトを終え、いつもの近道を歩いていた。その道は小さな神社の境内を突っ切る形になっている。子供の頃から慣れ親しんだ道で、夜遅くに通ることも珍しくなかった。
健太がこのアルバイトを始めて、もう二年になる。閉店作業を終えて店を出るのはいつも深夜1時を過ぎた頃で、この神社を抜ける近道を使えば、遠回りするより十分ほど早く家に着く。街灯もまばらな道だが、慣れてしまえば特に怖いとも思わなくなっていた。むしろ、昼間の賑やかさとは違う、静まり返った境内の空気が、健太にとっては心地よい時間ですらあった。
境内に足を踏み入れた瞬間、健太は違和感を覚えた。いつもなら真っ暗なはずの社殿の裏手、御神木のあたりに、ぼんやりとした灯りが揺れている。健太は足を止め、目を凝らした。蝋燭の炎のような、頼りない光だった。
「誰かいるのか……?」
好奇心と警戒心がせめぎ合いながら、健太は音を立てないよう、木々の陰から灯りの方をそっと覗き込んだ。そこにいたのは、白い着物をまとった女性だった。長い髪を振り乱し、頭には奇妙な形の輪をかぶっている。よく見ると、その輪には何本もの蝋燭が突き立てられ、揺れる炎が女性の顔を下から不気味に照らし出していた。
女性は御神木の前に立ち、手にした小さな人形のようなものを、幹に押し当てていた。次の瞬間、金属を叩くような、鈍く重い音が響いた。健太は息を止めた。女性は口の中で何かをぶつぶつと唱えながら、その動作を何度も繰り返している。恨みのこもった、地の底から響くような呟き声だった。
健太はその場から動けなくなっていた。子供の頃、祖母から聞かされた話が脳裏をよぎる。「丑の刻参りをしている人を見かけても、絶対に声をかけたり、姿を見られたりしてはいけないよ。見られたことに気づかれたら、恨みがこっちに向いてしまうこともあるんだから」。半信半疑で聞き流していたその言葉が、今になって重くのしかかってくる。祖母はいつも笑いながらそんな話をしていたが、今の健太には、とても笑い話とは思えなかった。
物音を立てないよう、健太はゆっくりと後ずさりを始めた。心臓の鼓動が、自分の耳にまで聞こえてきそうなほど大きく響いている。地面の感触を確かめながら、一歩、また一歩と後ろに下がっていく。しかし、緊張のあまり足元の小石を踏んでしまい、乾いた音が境内に響いた。
女性の動きが、ぴたりと止まった。
長い沈黙のあと、女性はゆっくりとこちらを振り返った。健太は木の陰に隠れていたはずだったが、女性の視線は、まるで健太のいる場所を正確に知っているかのように、まっすぐこちらに向けられていた。蝋燭の炎に照らされたその顔には、表情と呼べるものがなかった。ただ、虚ろな二つの目だけが、じっと健太を見つめていた。
健太は全身が凍りついたようになりながらも、なんとか身を翻し、無我夢中で境内を飛び出した。背後から足音が追いかけてくるような気配を感じたが、振り返る余裕などなかった。息が切れるまで走り続け、ようやく人通りのある大通りに出た時、健太は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
その夜以来、健太は毎晩のように寝苦しさを感じるようになった。眠りが浅く、夢の中でたびたび、あの女性の虚ろな目を見る。目が覚めても、しばらくは体が思うように動かないことが続いた。
一週間ほど経ったある日、健太は思い切って、あの神社の宮司に話を聞いてみることにした。境内の脇にある社務所を訪ね、あの夜見たものを、できるだけ具体的に説明した。宮司は健太の話を静かに聞いたあと、少し表情を曇らせて言った。
「実は最近、あの御神木のあたりで、似たような話をちらほら聞くようになってね。誰かが夜な夜な、何かを祈っているようだと。氏子さんの一人からも、御神木の幹に、見慣れない傷がいくつもついているという報告があったんだ」
健太は背筋が冷たくなるのを感じた。あの夜見た音は、やはり気のせいなどではなかったのだ。
「その人が、誰を恨んでいるのか……分かるんですか」
宮司は首を横に振った。「分からない。ただ、こういう話というのはね、見てしまった者にも、少なからず影響が及ぶことがあると言われているんだ。だから、お祓いを受けていくといい」
健太は言われるままに、社殿の中でお祓いを受けた。宮司が唱える祝詞を聞きながら、健太はあの夜のことを何度も思い返していた。あの女性は、いったい何のためにあれほどまでの怨念を抱えていたのだろうか。誰かに深く傷つけられた過去があったのか、それとも、もっと個人的な、誰にも理解されない苦しみを抱えていたのか。考えても、答えの出ない疑問だった。
お祓いを終えた帰り際、宮司はもう一つ、気になることを付け加えた。
「これはあくまで言い伝えなんだが……丑の刻参りを見てしまった者が、その後何日も体調を崩す、悪夢にうなされる、というのはよく聞く話でね。ただ、それも七日を過ぎれば自然と収まるとされている。もう少し辛抱してごらん」
その言葉通り、お祓いを受けてから一週間ほど経つと、健太の寝苦しさは少しずつ和らいでいった。それでも、あの夜の女性の虚ろな目だけは、今も忘れることができずにいる。
数ヶ月後、健太はふとしたきっかけで、あの神社の近くに住む同級生と再会した。世間話のついでに、あの夜のことをそれとなく話してみると、同級生は表情を強張らせてこう言った。
「その話、実はうちの近所でも噂になってるんだ。あの神社の御神木、最近ちょっとおかしなことになってるらしくて……誰も詳しくは言わないけど」
「詳しくは言わないって、どういうこと?」健太は思わず身を乗り出した。
「うちの母親が氏子の集まりに顔を出してるんだけど、その場でも話題に出たらしいの。でも、みんな途中で急に口をつぐんじゃうんだって。まるで、それ以上話すと何か良くないことが起きるみたいに」
健太はそれ以上、深く聞くことができなかった。あの夜、自分が見てしまったものが、いったい誰に向けられた恨みだったのか。そして、その願いが本当に成就してしまったのかどうか。健太は今も、答えを知らないままでいる。
同級生との会話の後、健太はインターネットで丑の刻参りについて改めて調べてみた。京都の貴船神社が発祥の地とされていること、この儀式が謡曲の題材にもなっていること、そして、儀式を目撃した者にまで影響が及ぶとされる言い伝えがあること。調べれば調べるほど、あの夜の出来事が、ただの偶然や見間違いでは片付けられないもののように思えてきた。
それでも健太は、あの女性が誰を、どんな理由で恨んでいたのかを知ろうとは思わなかった。知ってしまえば、自分がさらに深くその呪いに関わってしまうような気がしたからだ。ただ、あの神社の前を通るたびに、健太は決して足を止めず、御神木の方角を見ないようにしている。今でも、深夜のアルバイト帰りにその道を通る時だけは、無意識に早足になってしまう自分がいることに、健太自身が一番よく気づいている。それが単なる気の持ちようなのか、それとも、あの夜見てしまった何かが、今も自分のどこかに残り続けているからなのか、健太には判断がつかないままだ。
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この都市伝説の起源や真相が気になった方は、解説記事もあわせてご覧ください。
※この物語はフィクションです。

