※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
「泊まりに来るの、久しぶりだね」
玄関のドアを開けた瞬間、真央は満面の笑みでそう言った。大学時代からの友人である結衣が、キャリーバッグを転がしながら中に入ってくる。就職してからは互いに忙しく、こうして顔を合わせるのは半年ぶりだった。
「一人暮らし、快適そうじゃん」結衣は部屋を見回しながら言った。「でも、ベッド一つしかないんだね」
「うん、ごめんね。結衣は布団の方で大丈夫?」
「全然大丈夫。むしろ床の方が落ち着くタイプだから」
真央のマンションは、駅から少し歩いた場所にある築十年ほどの1LDKだった。一人暮らしを始めてもう三年になるが、これまで特に変わったことは何もなかった。オートロックもついているし、防犯面では安心できる部屋だと自分では思っていた。
二人は近くの居酒屋で夕食を済ませ、部屋に戻ってからも遅くまで話し込んだ。大学時代の思い出、今の仕事の愚痴、これからの将来のこと。話は尽きることなく続いたが、日付が変わる頃、さすがに眠気には勝てなくなってきた。
「そろそろ寝ようか」真央がそう言うと、結衣も頷いて、真央が用意しておいた布団を床に敷き始めた。真央はベッドに横になり、電気を消した。部屋は静かで、時折外を通る車のライトが、カーテンの隙間から天井をかすめていくだけだった。
「おやすみ」
「おやすみ」
そのまま眠りに落ちようとした矢先、結衣の声がした。
「ねえ、真央」
「ん、どうしたの」真央は目を閉じたまま答えた。
「お腹すいちゃった。近くにコンビニってあったよね。一緒に行かない?」
真央は少し驚いた。さっき居酒屋であれだけ食べたのに、今から何か食べたいとは思えなかった。
「今から?もう1時過ぎてるよ」
「うん、でも、なんか無性に食べたくなっちゃって。アイスとか」
結衣の声は、いつもより少し早口だった。真央は面倒だと思いながらも、久しぶりに会った友人の頼みを無下にする気にもなれず、渋々身体を起こした。布団の中で結衣がもぞもぞと動いている気配がする。真央は暗闇の中、目を細めて結衣の様子を窺った。何かがおかしい、そう感じたが、それが具体的に何なのかは、この時はまだ分からなかった。
「分かった、分かった。すぐ行こう」
「うん、今すぐ行こう。早く」
結衣の口調が、やけに急かすように聞こえた。真央は少し引っかかりを覚えながらも、パーカーを羽織って玄関に向かった。結衣も足早についてくる。玄関のドアを開け、外に出た瞬間、結衣が真央の腕を強く掴んだ。
「真央、落ち着いて聞いて」
結衣の声は震えていた。真央は何事かと結衣の顔を見た。さっきまでの明るい表情はどこにもなく、真っ青な顔で、瞳だけが忙しなく揺れている。
「さっき、電気を消してすぐの時。真央がベッドに横になってから、床に布団を敷こうとして、ベッドの下を何気なく覗いたの」
「うん」
「そしたら——刃物を持った男の人が、うずくまってた」
真央は一瞬、何を言われているのか理解できなかった。冗談だと思って笑おうとしたが、結衣の表情を見て、それが本気だと悟った。
「本当に、こんな冗談言わないよ。すごく怖くて、でも真央をすぐに刺激したら何をされるか分からないと思って。だから、あんな風に急に誘って、外に連れ出したの」
真央は背筋が凍りついた。あの部屋の中、ベッドのすぐ下に、自分が眠ろうとしていたその真下に、誰かがいた。しかも刃物を持って。全身が震え出すのを感じながら、真央はスマートフォンを取り出した。
「けい、警察」
結衣は頷いた。二人はそのまま近くの交番まで駆け足で向かい、事情を説明した。警察官は真剣な表情で話を聞き、すぐにパトカーで部屋の近くまで来てくれることになった。
部屋の前で待っている間、真央の頭の中には様々な想像が渦巻いていた。もしあのまま結衣が誘ってくれなかったら。もし結衣が気づかずにベッドの下を覗かなかったら。想像するだけで、足の力が抜けそうになる。
「大丈夫だよ、真央」結衣が肩に手を置いた。「気づけたんだから」
警察官たちが到着し、慎重に部屋のドアを開けた。真央と結衣は、少し離れた場所からその様子を見守っていた。制服を着た警察官が二人がかりで部屋に入っていく様子を見ながら、真央は自分の部屋がまるで他人の家のように感じられた。数分後、警察官の一人が困惑した表情で出てきた。
「すみません、ベッドの下には誰もいませんでした。部屋の中も一通り確認しましたが、異常はないようです」
結衣は信じられないという顔をした。「そんなはずないです。確かに見たんです。男の人が、刃物を持って——黒っぽい服を着ていて、うずくまっていたんです」
警察官は丁寧に部屋の中を再確認してくれたが、結局、誰かがいた痕跡は見つからなかった。窓の鍵もかかったままで、侵入の形跡もない。ベッドの下の埃にも、乱れた様子は見当たらなかったという。真央と結衣は狐につままれたような気持ちで、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「見間違いだったのかな」真央が呟くと、結衣は首を横に振った。
「絶対に見間違いじゃない。あんなにはっきり見えたのに」
その声には、まだ怯えの色が残っていた。真央は結衣を安心させるように肩を叩いたが、内心では自分自身も落ち着かない気持ちだった。もし本当に誰もいなかったのだとしたら、結衣は何を見たのだろう。それとも、警察が来る前に、何かがどこかへ消えてしまったのだろうか。
その夜、真央は結局、結衣と二人でホテルに泊まることにした。部屋に戻る勇気は、どうしても出なかったからだ。ホテルのベッドに横になっても、真央はなかなか寝付けなかった。隣のベッドで結衣も同じように、天井を見つめたまま黙り込んでいた。
「ねえ、結衣」真央は暗闇の中で声をかけた。「本当にありがとう。あの時、気づいてくれて」
「ううん」結衣の声は小さかった。「私も、なんであの時に気づいたのか、自分でもよく分からないの。ただ、なんとなく、布団を敷こうとしゃがんだ拍子に、視界の端に何かが見えた気がして。振り返って確認したら……」
結衣はそこで言葉を止めた。それ以上は、思い出したくないようだった。
数日後、真央は思い切って不動産会社に連絡を取り、部屋の防犯設備について相談した。担当者の話によると、この物件では過去にも似たような相談が何度かあったという。「ベッドの下に誰かがいた気がする」という訴えが、これまでにも数件寄せられていたらしい。
「実際に何かが見つかったことは、一度もないんですけどね」担当者はそう言って、困ったように笑った。「気のせいだと思いますが、心配でしたら、防犯カメラの設置もご検討いただけますよ」
真央は勧められるままに、玄関とベッド周りに小型の防犯カメラを設置することにした。それから数週間、特に何も映ることはなかった。
真央は今もその部屋に住み続けている。ただ、あれ以来、寝る前には必ずベッドの下を懐中電灯で確認する習慣がついた。結衣があの夜、なぜあれほど確信を持って刃物を持った男を見たと言ったのか、真相は今も分かっていない。ただ真央は、あの夜以来、結衣にどれだけ感謝してもしきれないと思っている。たとえあれが見間違いだったとしても、あの一瞬の判断が、自分を救ってくれたのかもしれないと、今も心のどこかで信じているからだ。
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この都市伝説の起源や真相が気になった方は、解説記事もあわせてご覧ください。
※この物語はフィクションです。

