口裂け女の都市伝説を題材としたショートストーリー

口裂け女の都市伝説 STORY

母が家の中でもマスクを外さなくなって、二週間になる。

「花粉がひどくて」と母は言った。十月にそんなに花粉が飛ぶものなのか、由紀にはよくわからない。けれど、母は昔からアレルギー持ちだったし、仕事で疲れているのもわかっていたから、それ以上は聞かなかった。夕飯のときも、母は向かいの席でマスクをしたまま座っている。「先に食べちゃった」と言って、由紀が食べ終わるのを、頬杖をついて眺めている。

マスクの耳にかかるあたりが、いつも少しだけ赤く汚れていた。口紅だろう、と由紀は思っていた。

変わったのはマスクだけではなかった。前は台所で鼻歌をうたいながら料理をしていたのに、最近の母は黙って鍋をかき回している。話すときも、口をあまり動かさない。一度、ふざけて後ろから母のマスクを引っぱろうとしたことがある。母は振り向きもせずに由紀の手首をつかんだ。驚くほど冷たい手で、驚くほど強い力だった。

「だめ」

すぐに母は「うつしちゃうから」と笑ったけれど、由紀の手首には、その夜まで赤い跡が残っていた。

その二、三日あと、二人で洗い物をしているとき、母が唐突に聞いてきた。

「ねえ由紀。お母さんの顔、好き?」

「なに急に。普通だよ、普通」

母は「そっか」と言っただけで、それきり何も言わなかった。

口裂け女の噂がクラスで流行り出したのは、その少しあとだった。

「最近のは、うつるんだって」

昼休み、隣の席の真奈が声をひそめて言った。夜道で「私、きれい?」と聞いてくる女。「きれい」と答えればマスクを外して裂けた口を見せ、「きれいじゃない」と答えれば刃物で切りつけてくる。そこまでは、由紀も小学生のころから知っている話だった。

「『きれい』って答えちゃった人は、そのあと自分の口も裂けてくるの。口の端から、毎日ちょっとずつ。で、最後は自分がマスクして、誰かに聞いて回るようになるんだって」

「なにそれ。増えてるじゃん、設定」

笑って返した。真奈も笑った。でも真奈は最後に、思い出したように付け足した。

「あ、でもね。『普通』って答えると、困って帰っちゃうらしいよ。きれいでも、きれいじゃないでもないから」

その夜、塾を出たのは九時を少し過ぎていた。

母には九時半には着くと言ってある。いつもの遠回りの道を使えば間に合わない。由紀は少し迷ってから、商店街の裏の細い路地に入った。

路地には街灯が三本ある。手前の二本は切れていて、出口の近くの一本だけが、寿命の近い蛍光灯のように、ついたり消えたりを繰り返していた。ついているあいだだけ、その下の地面が白く浮かび上がる。消えると、路地の先は真っ暗になる。

その一本の真下に、女が立っていた。

光がついた一瞬に見えて、消えた。次についたときも、同じ場所にいた。長い髪。季節に合わない、丈の長いコート。顔の下半分を、大きな白いマスクが覆っている。女は由紀を見ていた。いつから見ていたのかはわからなかった。

「ねえ」

思っていたよりずっと静かな声だった。

「私、きれい?」

喉が固まった。逃げなきゃ、と思う頭とは別に、足が地面に貼りついたように動かない。光が戻るたびに、女のマスクの両端が、耳の下まで赤く濡れているのが見えた。

真奈の声がよみがえる。普通、って答えると、困って帰っちゃうらしいよ。

「……ふ、普通、です」

女は、首をかしげた。

街灯が消えた。

暗闇の中で、何かが擦れる音がした。布と、湿ったものが擦れる音。由紀は息を止めた。

街灯がついた。女はさっきより一歩近くにいて、マスクを顎の下まで引き下ろしていた。

口の両端が、耳の付け根まで裂けていた。裂け目には黒い糸が粗い目で縫いつけてあったが、その半分以上がちぎれて、糸の端が濡れた肉の中から何本も垂れ下がっていた。縫い目のあいだから、頬の内側の赤い肉と、奥歯の並びが見えた。女が息を吐くたびに、裂け目のふちが、魚のえらのようにひくひくと開いた。

「そう」

女は言った。口がそれ以上開かないように、ゆっくりと。

「あなたのお母さんは、きれいって言ってくれたのに」

街灯が消えた。

次に光が戻ったとき、そこにはもう誰もいなかった。濡れたアスファルトの上に、ちぎれた黒い糸が一本だけ落ちていた。

由紀は走った。大通りに出て、コンビニの明かりの前を抜け、マンションの階段を一段飛ばしで駆け上がった。鍵を回す手が震えて、二度、鍵穴を外した。

「おかえり。遅かったね」

台所に母が立っていた。いつものマスクをして、いつもの声で。由紀は玄関に座り込んだまま、しばらく立ち上がれなかった。

「どうしたの。走ってきたの?」

「……うん。なんか、変な人がいて」

「やだ、気をつけてよ」

母はそう言って、温め直した味噌汁を出してくれた。向かいの席に座り、頬杖をついて、由紀が食べるのを眺めている。いつもと同じだった。何も変わらない、いつもの夜だった。

布団に入ってから、由紀は女の最後の言葉を何度も思い返した。

あなたのお母さんは、きれいって言ってくれたのに。

ただの脅し文句だ。誰にでも言っているに決まっている。そう思おうとしたところで、二週間前の夜のことを思い出した。

あの日、母は仕事から帰るのがひどく遅かった。玄関で靴を脱ぎながら、母は笑って言ったのだ。

「帰りにね、変な人に話しかけられちゃって。びっくりした」

何を聞かれたの、と由紀は聞かなかった。母も言わなかった。

母がマスクを外さなくなったのは、その次の日からだ。

由紀はそっと布団を抜け出した。廊下は暗く、母の寝室の戸は閉まっている。足音を殺して洗面所に入り、明かりはつけずにスマホのライトで足元を照らした。

洗面台の下のゴミ箱に、使い終わったマスクが何枚も丸めて捨ててあった。

一枚を指先でつまんで広げる。内側の、ちょうど口の両端にあたる場所が、赤黒く固まっていた。口紅の色ではなかった。染みは左右に細く長く伸びて、耳にかかるゴムのところまで続いていた。乾いた血の中に、黒い糸くずが何本も貼りついていた。どのマスクも、同じだった。日付の新しいものほど、染みは長くなっていた。

顔を上げると、洗面台の棚に、母の裁縫箱が置いてあった。いつもはリビングの棚にあるはずのものだった。少しだけずれた蓋の隙間から、黒い糸が一本、垂れ下がっていた。その先が、まだ湿っていた。

うつしちゃうから。

母の声がよみがえった。あのとき母は、本当のことを言っていたのだ。

由紀はマスクをゴミ箱に戻し、音を立てないように部屋へ戻った。布団にもぐり込んでも、震えが止まらなかった。母が何も食べなくなったこと。話すとき、口をあまり動かさないこと。頬杖をついて、ずっとこちらの顔を見ていること。お母さんの顔、好き?

廊下で、床の軋む音がした。

部屋の引き戸が、細く開いた。廊下の明かりを背に、母が立っていた。マスクをしている。その両端が、暗がりの中でも黒く濡れて見えた。顎の先から、何かが一滴、床に落ちた。

「ねえ、由紀」

いつもの、母の声だった。口を、あまり動かさずに。

「お母さん、きれい?」

由紀はまだ、その答えを決められずにいる。


この都市伝説の起源や、なぜ社会現象になったのかは、解説記事にまとめています。
口裂け女の都市伝説・起源と真相

※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

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