※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
雨の日は、傘の音で足音が聞こえなくなるから嫌いだった。
小学四年生の陽太は、いつもより早く学校を出た。誰よりも早く昇降口を抜けて、誰とも顔を合わせないうちに、家までの道を急ぎたかった。
最近、クラスで陽太をいじめている数人がいた。上履きを隠されたり、机の中にゴミを入れられたり、休み時間に聞こえよがしの陰口を言われたり。担任には気づかれないよう、うまくやられていた。誰にも相談できないまま、二か月が過ぎていた。
傘を叩く雨粒の音に紛れて、何かが近づいてくることに、陽太はしばらく気づかなかった。
「ずる……ずる……」
奇妙な音が聞こえたのは、通学路の角を曲がったときだった。振り返る。誰もいない。ただ、濡れたアスファルトの上に、何か重いものを引きずったような跡だけが、雨に光っていた。
気のせいだ。陽太はそう思って、また歩き出した。だが数歩も進まないうちに、また音がした。
「ずる……ずる……」
今度は、はっきりと近い。傘の下から、そっと後ろを覗き見る。
そこに、女がいた。
異様に背が高く、白いワンピースを着ている。長い髪が雨に濡れて顔に張り付き、その隙間から覗く目は、縦に裂けているように見えた。傘も差さずに、雨の中に立っている。
女は、何かを引きずっていた。それが何なのか、陽太には確かめる勇気がなかった。
陽太の頭に、クラスで囁かれていた噂話がよぎった。「ひきこさんって知ってる? 雨の日に出るらしいよ。誰かを引きずっていくんだって」。バカバカしいと思って聞き流していた話が、今、目の前にある。
逃げなければ。そう思うのに、足が地面に貼りついたように動かなかった。
「……見つけた」
女の声は、掠れていて、それでいて妙に優しく聞こえた。陽太は喉の奥で小さく声を漏らしたが、それ以上は何も出てこなかった。
女はゆっくりと近づいてくる。ずる、ずる、という音を引きずりながら。傘に落ちる雨音と、その音が重なって、陽太の耳の中でどちらも同じ響きに聞こえ始めた。
「あなた、いじめられてるでしょう」
その言葉に、陽太は思わず顔を上げた。なぜ知っているのか、考える余裕もなかった。
「わたしもね、そうだったの。だから、わかるの」
女は数歩先で立ち止まった。近づいてこようとはしない。ただ、じっと陽太を見つめている。裂けた目の奥に、何か哀しいような光が見えた気がした。
「あなたを、いじめてるのは誰?」
女がそう尋ねた瞬間、陽太の脳裏に、自分の上履きを隠した同級生たちの顔が、次々と浮かんだ。答えようとして、しかし言葉が出なかった。言っていいのか、分からなかった。
「言わなくてもいいの。わたしには、もうわかっているから」
女はそう言うと、踵を返して、雨の向こうへと歩いていった。ずる、ずる、という音だけが、しばらく路地に残っていた。姿はすぐに、灰色の雨に溶けて見えなくなった。
その夜、陽太は布団の中で、何度もあの声を思い返していた。助けてくれるということなのか。それとも、何か別のことが起きようとしているのか。分からないまま、いつの間にか眠りに落ちていた。
翌日、教室に入ると、いつも陽太をいじめていた同級生の一人が、学校を休んでいた。理由は誰にも知らされなかった。担任も、どこか歯切れの悪い説明をしただけだった。
それから数日のうちに、他のいじめの中心人物たちも、次々と休みがちになっていった。誰かがそのことに気づいて話題にしても、すぐに別の話にすり替わっていく。まるで、その話題自体に触れてはいけない空気があるようだった。
いつしか、陽太をいじめる者はいなくなっていた。
陽太は今でも、雨の日に「ずる、ずる」という音を聞くと、あの日の女を思い出す。あれは本当に、助けてくれたのだろうか。それとも――。
もし今、あなたが誰かを深く傷つけているのだとしたら。雨の音に紛れて聞こえてくる足音に、心当たりはないだろうか。
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※この物語はフィクションです。

