雨の日に、閉じた傘を引きずって歩く人がいる。
先のほうがアスファルトをこすって、ずる、ずる、と音を立てる。駅の階段で、横断歩道で、すぐ後ろでその音がするたびに、俺は振り返らずにいられない。そして、たいていは普通の人が、普通に傘を引きずっているだけだとわかって、自分の首筋がびっしょり濡れていることに気づく。
雨のせいではなかった。
中学二年のとき、同じクラスに、背の高い女子がいた。
クラスでいちばん背が高く、いつも猫背で、長い前髪で顔を隠していた。休み時間はずっと本を読んでいて、誰とも話さなかった。名字をもじって、男子は彼女を「ひきこもり」と呼んでいた。言い出したのは、たぶん俺だった。
最初は、からかうだけだった。机に落書きをする。上履きを隠す。それが、いつのまにか遊びになった。昼休みに、俺と田村と岡と、もう一人、柏木の四人で彼女の両腕をつかみ、廊下の端から端まで引きずって歩くのだ。
「引っ張ってやるよ、ひきこもり」
彼女は抵抗しなかった。声も出さなかった。ただ、廊下の床にこすれる上履きの音だけが、ずる、ずる、と響いていた。周りの生徒は笑っていた。先生は見ていないふりをしていた。
一度、引きずっている途中で、彼女の上履きが脱げたことがある。靴下のまま床をこすった足の甲が、廊下の端に着くころには赤く剥けていた。床に、細い血の線が二本、廊下の向こうまで続いていた。さすがにまずいと思ったのか、田村が手を離した。俺は、離さなかった。最後まで引きずって、階段の踊り場で手を離した。
彼女は床に座り込んだまま、長い前髪の隙間から俺を見上げた。泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。ただ、首を少しだけかしげていた。何かを覚えておこうとするみたいに。
三学期になって、彼女は学校に来なくなった。机の中には、読みかけの本が一冊残っていた。誰も片づけなかったので、その本は学年末まで、空いた机の中に入ったままだった。転校したと聞いた。それきり、誰も彼女の話をしなくなった。俺も、忘れていた。
二十年たって、思い出させたのは、中学の同級生のグループLINEだった。
成人式のときに誰かが作って、それ以来ほとんど動いていないグループだった。ある雨の夜、田村が久しぶりに書き込んだ。
「最近さ、雨の日に後ろで傘引きずる音しない?」
誰も返事をしなかった。俺も既読だけつけて、スマホを伏せた。
一週間後、田村が死んだ。
雨の夜、家の近くの用水路で見つかったという。葬式で、田村の母親が誰かに話しているのが聞こえた。見つかった場所から、家の前まで、何百メートルも、道路に跡が続いていたらしい。何か重いものを、引きずったような跡が。
棺の窓は、開けられなかった。
それから、岡が死んだ。やはり雨の夜だった。岡の遺体は、背中から後頭部にかけての皮膚がすべて削れて、なくなっていたと、あとで噂で聞いた。アスファルトの上を、長いあいだ引き回されたように。
グループLINEで、柏木が書き込んだ。
「あいつだよな」
誰も返事をしなかった。翌週、雨が降った。
その夜遅く、柏木からグループに音声メッセージが一件届いた。再生すると、雨の音だけが聞こえた。激しい雨が、何かを打つ音。その奥で、ずる、ずる、と、重いものを引きずる音が、規則正しく続いていた。柏木の声は入っていなかった。最後の数秒だけ、すぐ近くで、濡れた布がアスファルトをこするような音がした。
柏木の書き込みは、それきり増えなかった。グループには、もう俺しか残っていない。
調べた。ネットで、ひきこさん、という名前を見つけた。雨の日に現れる、異様に背の高い女。いじめられていた過去を持ち、子どもを捕まえて、肉の塊になるまで引きずり回す。名前は、引きこもりをもじったものだとも書いてあった。
弱点も書いてあった。鏡を見せると逃げる。自分の醜い顔を見たくないからだ、と。
それから俺は、小さな手鏡をいつもポケットに入れている。
先週の雨の夜、駅からの帰り道で、後ろからその音がした。
ずる、ずる。
傘の音だと思おうとした。足を速めた。音も速くなった。振り返る代わりに、ポケットから手鏡を出して、肩越しに後ろを映した。
街灯の下に、女が立っていた。
傘を差していなかった。異様に背が高く、首を前に突き出すようにして、猫背で立っていた。長い前髪が雨で顔に張りついていた。その手に、何かの端を握っていた。それは道路の上を、闇の向こうまで長く伸びていた。
鏡の中で、女は動きを止めた。
前髪の隙間から、こちらを見ていた。鏡ではなく、鏡を持つ俺の手を。
それから女は、ゆっくりと首をかしげた。廊下を引きずられていたとき、ときどき彼女がしていたのと同じ角度だった。
俺は走った。家に着くまで、一度も振り返らなかった。
ドアを閉めて、玄関に座り込んだ。ポケットの手鏡を出すと、鏡面に、細いひびが一本入っていた。
天気予報を見るのが、癖になった。
晴れマークが並ぶと、息ができる。傘マークがひとつでもあると、その日は会社を休む。それでもいつかは、雨の中を帰らなければならない日が来る。
手鏡のひびは、雨が降るたびに一本ずつ増えている。
今朝の予報では、来週、梅雨入りするらしい。
この都市伝説の起源や、名前に隠された言葉遊びについては、解説記事にまとめています。
ひきこさんの都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

