二リットルのペットボトルから水を注ぐと、空気が入って、ぽこ、ぽこ、と鳴る。あの音が、いまだに苦手だ。
高校二年の春休み、俺はひとりで祖父母の家に泊まりに行った。電車とバスを乗り継いで三時間かかる、山あいの小さな集落だった。祖父母の家のまわりには、俺の背よりずっと高い、二メートルほどの生垣がめぐらせてあった。
着いた日の午後、縁側で寝転んでいると、生垣の上を、白い帽子が横に動いていくのが見えた。
つばの広い、女物の帽子だった。生垣のてっぺんより、さらに上にあった。帽子は、人が歩くくらいの速さで、生垣の上をすうっと滑っていった。
「ぽ、ぽぽ、ぽ、ぽっ」
生垣の向こうから、そんな音がした。人の声のようにも、何かを叩く音のようにも聞こえた。
帽子は生垣の端まで行って、止まった。生垣の切れ目は、門になっている。そこから誰かが出てくるのだと思って、俺は待った。
誰も出てこなかった。顔を上げると、帽子も消えていた。
夕飯のとき、その話をした。
祖父の手から、箸が落ちた。
「生垣より、高かったのか」
うなずくと、祖父は立ち上がって、黒い固定電話でどこかへ電話をかけた。祖母は、茶碗を持ったまま動かなくなった。
一時間ほどして、近所の家のおばあさんが来た。小さな紙の包みを、いくつも抱えていた。おばあさんは俺の顔をじっと見て、「ああ、見られとるね」と言った。
その夜、祖父が教えてくれた。
あれは、八尺様と呼ばれている。背丈が八尺、二メートル四十センチほどある女の姿をしている。若い男に目をつける。目をつけた相手のところへ、数日のうちにやって来て、連れていく。
この集落の東西南北の境には、地蔵が一体ずつ置いてある。八尺様は、その内側から出られない。だから、集落の外の人間は、まず見ることがない。
「六十年前にも、ひとり連れていかれた」
当時の祖父と同じ年ごろの、近所の男の子だったという。三日後に、山の杉の木の上で見つかった。大人が梯子をかけても届かない、高い枝の上だった。両腕が、肩から抜けかけていた。上から、強い力で引っぱり上げられたように。
「それとな。あれは、一度目をつけたものを、忘れん」
祖父は、俺の目を見て言った。
その夜、俺は一階の奥の座敷にひとりで入れられた。
窓は、天井近くに小さな明かり取りの窓がひとつあるだけだった。祖父は、その窓に新聞紙を貼った。部屋の四隅に、おばあさんが持ってきたお札を貼り、白い皿に塩を盛って置いた。床の間には、小さな仏像が置かれた。
祖父は言った。
「朝の七時まで、何があっても、ここから出るな。誰に呼ばれても、返事をするな。七時になったら、俺が戸を開けに来る。それより前に、俺がお前を呼ぶことは、絶対にない」
戸が閉められた。外から、何かを打ちつける音がした。
夜中の一時を過ぎたころだった。
こつ、こつ、と音がした。
天井近くの、明かり取りの窓からだった。外から、誰かがガラスを指で叩いていた。
あの窓は、外から見ると、地面から二メートル半ほどの高さにある。大人が背伸びをしても、手は届かない。窓の下には、台になるようなものは何もない。
「ぽ、ぽぽ、ぽ」
叩く音に混じって、あの声がした。俺は布団の中で耳をふさぎ、仏像に向かって、知っているかぎりのお経をでたらめに唱えた。
どれくらいたったのか、わからない。音がやんだ。
しばらくして、戸の向こうから、祖父の声がした。
「健、もう大丈夫だ。いなくなった。出てきていいぞ」
体から、一気に力が抜けた。布団をはねのけて、戸のほうへ這っていった。「じいちゃん」と、声が出かかった。
そのとき、枕元の目覚まし時計が目に入った。
三時十二分だった。
七時より前に、俺がお前を呼ぶことは、絶対にない。
戸の向こうで、祖父の声が、もう一度言った。
「健。出てきていいぞ」
まったく同じ言い方だった。息つぎの位置まで、同じだった。
俺は口を両手で押さえて、後ずさった。
戸の向こうが、しばらく静かになった。それから、すぐ戸の向こう、俺の顔の高さよりずっと上のほうから、声がした。
「ぽ、ぽぽ、ぽ」
笑っているように聞こえた。
七時ちょうどに、戸が開いた。本物の祖父だった。祖父は部屋に入るなり、四隅の皿を見た。盛り塩が、四つとも、上のほうから黒く変色していた。
その朝、親戚の男たちが八人集まって、ワゴン車を二台出した。俺は真ん中の席に座らされ、両側と前後を、同じ血を引く男たちで固められた。血のつながった者が近くに大勢いると、八尺様はどれが目当ての相手か、わからなくなるのだという。
「集落の外の地蔵を過ぎるまで、目を開けるな。何が聞こえても、窓の外を見るな」
車は、人が歩くほどの速さで、集落の中を進んだ。
走り出してすぐ、左の窓の外から、あの声がした。
「ぽ、ぽぽ、ぽ」
車の速さに合わせて、声はずっとついてきた。俺は目を固く閉じていた。それでも、まぶたの向こうが、ふっと暗くなるのがわかった。左の窓のすぐ外に、何か大きなものが立って、日の光をさえぎっていた。
窓ガラスを、こつ、こつ、と叩く音がした。
隣に座っていた叔父が、俺の頭を、自分の胸に押しつけた。叔父の心臓の音が、ものすごく速かった。
どれくらい走ったのか。ふいに、声が途切れた。
「地蔵を過ぎた。もういいぞ」
運転していた伯父が言った。目を開けると、車はもう、集落の外の県道を走っていた。
別れぎわ、祖父は言った。
「もう、ここには来るな。何があってもだ。俺が死んでもだ」
それから二十年、俺は一度もあの集落へ行っていない。祖父母とは、毎年、電話で話すだけだった。
その祖父が、先月、亡くなった。葬式にも、俺は行かなかった。行くなと、伯父に止められた。
先週、その伯父から電話があった。
県道の拡幅工事で、集落の東の境の地蔵が、別の場所へ移されることになった。運ぶ途中で、重機の爪が当たったらしい。地蔵の首が、根元から折れていたという。
あのとき、俺たちの車が最後に通り過ぎたのが、東の地蔵だった。
昨日の夕方、会社から帰ってきたとき、家のブロック塀の上を、白い帽子が横に動いていくのが見えた。
塀の高さは、百九十センチある。
帽子は塀の端まで行って、止まった。塀の切れ目は、門になっている。
誰も出てこなかった。
そして今夜。玄関の外から、声がした。
「健、もう大丈夫だ。出てきていいぞ」
息つぎの位置まで、あの夜と同じだった。
祖父は、先月、亡くなっている。
枕元の時計は、三時十二分を指している。
この物語のもとになった八尺様の都市伝説、その起源と真相はこちら。
八尺様の都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

