朝起きると、まず枕に落ちた髪の毛を数える。それが、この一年の日課になった。
祖母が亡くなったのは、私が二十歳の冬だった。
遺品を整理していると、祖母の部屋の押し入れの奥から、古い桐の箱が出てきた。ふたを開けると、薄紙に包まれた雛人形が入っていた。お内裏様とお雛様の、二体だけだった。
お雛様の髪は、お内裏様とはちがっていた。艶のある黒髪で、肩の高さで、まっすぐに切りそろえられていた。人形用の糸ではなく、本物の人の髪のように見えた。
「これ、おばあちゃんが毎年、自分で飾ってたやつ」
母が言った。
「私には、一度も触らせてくれなかったのよ。飾るのも、しまうのも、全部おばあちゃんが一人でやってた」
せっかくだから今年は飾ろう、ということになって、ひな祭りまでの二週間ほど、居間に出しておいた。
飾った日に、なんとなく、お雛様の写真を撮った。肩の高さで切りそろえられた黒髪が、きれいに写っていた。少し伏し目がちの、口をきゅっと閉じた、おとなしい顔だった。
おかしなことに気づいたのは、飾って三日目の朝だった。
お雛様の向きが、変わっていた。お内裏様と並んで正面を向いていたはずが、体を少しだけ横に向けていた。廊下のほう、私の部屋のあるほうへ。
母に聞くと、触っていないと言う。私も触っていない。気のせいだと思って、正面に向け直した。
次の朝、お雛様は、また廊下のほうを向いていた。その次の朝には、台の上を少しずれて、お内裏様から指一本ぶん、離れていた。毎朝、向き直しても、翌朝には同じ方向を向いていた。
桃の節句が終わって、人形をしまう日、お雛様を手に取った。
顔が、ちがって見えた。
写真を出して見比べた。写真のお雛様は、伏し目で、口を閉じていた。手の中のお雛様は、目を上げて、私の顔をまっすぐ見ていた。閉じていたはずの唇が、ほんの少しだけ開いていた。
光の加減だ、と自分に言い聞かせた。薄紙で顔ごと包んで、桐の箱にしまった。箱は、私の部屋の押し入れに入れた。
髪が抜けはじめたのは、その春からだった。
私の髪は、腰に届くほど長い。毛先に少しくせがあって、光に当たると茶色っぽく見える。小さいころから、それが自慢だった。
最初は、ブラシにからまる量が少し増えただけだった。夏には、枕に何十本も落ちるようになった。秋には、お風呂の排水口が毎晩詰まった。皮膚科に行くと、ストレスでしょう、と言われた。
母にそのことを話すと、母は少し考えてから言った。
「そういえば、おばあちゃんも、若いころに髪がごっそり抜けたんだって。それから亡くなるまで、ずっとかつらだったのよ」
知らなかった。祖母の髪は、いつもきれいに結われていた。
「私はね、おばあちゃんに、髪を伸ばすなって言われて育ったの。理由は教えてくれなかった。ただの迷信だと思ってたから、あんたには言わなかったけど」
母は昔から、ずっとショートカットだった。
次の年の二月、ひな祭りの準備をしようと、押し入れから桐の箱を出した。
ふたを開けて、声が出なかった。
お雛様の髪が、伸びていた。
スマホで去年の写真を出して、見比べた。去年は、たしかに肩の高さで切りそろえられていた。今は、着物の裾をこえて、箱の底で何重にもとぐろを巻いていた。そっとほどいて伸ばしてみると、私の腕の長さほどもあった。
髪の量も、増えていた。指ですくってみた。
去年からの、黒くてまっすぐな人形の髪のあいだに、ちがう髪が何百本も混じっていた。光に当てると、茶色っぽく見えた。毛先に、少しくせがあった。
私の髪だった。
顔も、また変わっていた。唇の両端が、上にもち上がっていた。うれしそうに、笑っていた。
震える手で、お雛様の頭の髪をかき分けた。伸びた髪は、人形の頭に、一本一本、植えつけるように刺さっていた。
一本を、指でつまんで抜いてみた。
根元に、白くて小さな粒がついていた。毛根だった。はさみで切った髪には、つかないものだった。
この一年、私の頭から抜けていった髪は、全部ここに来ていた。
母は、すぐにお寺へ持っていこうと言った。お寺の都合がつくのは、翌朝だった。それまで、箱はガムテープで何重にも巻いて、私の部屋の押し入れに入れておくことにした。
母は、ガムテープを巻きながら、ぽつりと言った。
「おばあちゃん、亡くなる前に、変なこと言ってたの。人形の髪が、持ち主の髪より長くなったら、もう、手放しても遅いって」
その夜、私は鏡の前で、自分の髪をはかった。
腰まであったはずの髪は、抜けたり、切れたりして、すっかり薄く短くなっていた。いちばん長い毛先でも、肩甲骨のあたりまでしかなかった。
腕の長さほどもある人形の髪のほうが、もう、ずっと長かった。
夜中、頭皮が引っぱられる痛みで、目が覚めた。
暗い中で、枕に顔を横たえたまま、目だけを動かした。
私の顔のすぐ横に、お雛様の顔があった。
白い顔が、枕の上で、私と向かい合っていた。押し入れのふすまが、少しだけ開いていた。ガムテープを巻いたはずの箱が、ふたを開けて、畳の上に転がっていた。
お雛様の長い髪が、枕の上いっぱいに広がっていた。その髪は、私の髪と、根元のところで、細かく固く、結び合わされていた。
起き上がろうとして、頭を引いた。
ぶちぶちと音がして、頭のてっぺんに、焼けるような痛みが走った。手をやると、指が濡れた。髪といっしょに、頭の皮が、小さくはがれていた。
お雛様は、笑っていた。唇が、箱を開けたときよりも、さらに大きく開いていた。その口のすきまから、細い髪の毛が何本も、はみ出していた。茶色っぽい、くせのある髪だった。
お雛様は、私の髪と結ばれた自分の髪を、少しずつ、自分のほうへ引き寄せていた。
お寺に持っていくのは、明日の朝だ。
まだ、夜は明けない。
この物語のもとになった雛人形の髪の毛の都市伝説、その起源と真相はこちら。
雛人形の髪の毛の都市伝説・起源と真相
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

