「なあ。さっきから、同じ木を見てないか?」
助手席の健太が、窓の外を見たまま言った。深夜一時前、国道139号線。青木ヶ原樹海の真ん中を抜けるこの道は、地元では樹海ラインと呼ばれている。ヘッドライトが照らすのは、黒い幹と、濡れた苔と、絡み合った枝ばかりで、どれも同じに見えた。
「気のせいだろ」
運転していた大輔は笑った。大学時代からの友人の二人は、河口湖で遊んだ帰りに、少しだけ遠回りをしていた。一度、夜の樹海を走ってみたい。大輔が前に言ったのを、健太が覚えていたのだ。八月なのに、車内は妙に寒かった。
「このへん、白い服の女が出るって話、知ってる?」
健太が言った。
「夜の樹海ラインの道ばたに立ってて、通る車の中を、じっとのぞくんだって。何人乗ってるか、数えてるらしいよ」
「やめろよ、こんなとこで」
大輔は笑って流した。
「悪い、ちょっと止めて。トイレ」
健太が言った。この先には何もない。大輔はため息をついて、路肩に車を寄せた。
「森の中には入るなよ」
「分かってる。道路から離れない」
エンジンを切り、ライトを消すと、外は完全な闇になった。風の音も、虫の声もしない。森が、音をすべて吸いこんでいるようだった。スマホを見ると、いつの間にか圏外になっていた。
車は、左側の路肩に寄せてある。助手席のすぐ外は、ガードレールの切れ目で、その向こうはもう森だった。健太は助手席のドアを開け、冷たい空気と一緒に出ていった。ドアが閉まると、足音は車の後ろのほうへ回っていき、すぐに聞こえなくなった。午前一時二分だった。
運転席に一人で座ったまま、大輔は待った。
しばらくして、車の後ろで、カサッ、と落ち葉を踏む音がした。
健太が戻ってきたのだろう、と大輔は思った。けれど足音は、助手席のほうへは来なかった。車の後ろから、ゆっくりと、運転席の側へ回りこんできた。森とは反対の、道路の側だった。
カサッ。カサッ。
足音は、大輔の座っている運転席の窓のすぐ外を通った。窓の外は真っ暗で、何も見えない。それでも、ガラス一枚向こうを、誰かが通っていくのがわかった。足音はそのまま車の前を横切って、反対側へ回っていった。
「健太?」
返事はなかった。足音は、助手席の窓の外で止まった。さっき健太が出ていった、森の側の窓だった。そこに、誰かが立って、車の中をのぞきこんでいる。大輔は息を殺して、前だけを見ていた。
そのとき、ガードレールの向こう、真っ暗な森の奥で、カメラのフラッシュのような白い光が、ぱっと一度だけ光った。
窓の外の気配が、ぴたりと動きを止めた。光ったほうを、ゆっくりと振り向いたのがわかった。
次の瞬間、足音はガードレールを越えて、光ったほうへ、森の奥へと遠ざかっていった。
それから、二分ほどたったころだった。助手席のドアが開いた。
「悪い、待たせた」
健太だった。大輔は思わず聞いた。
「お前、どこにいた?」
「どこって、すぐそこだよ。それより早く行こうぜ」
健太はシートに座った。スニーカーが泥で黒く濡れていて、髪に、枯れた葉が一枚ついていた。道路から離れない、と言っていたのに。車の中に、湿った土のにおいが広がった。
大輔はエンジンをかけた。走り出してすぐ、ヘッドライトの先、ガードレールの向こうに、白い服の女が立っていた。長い髪で、顔は見えない。女は道路のほうへ一歩出た。大輔は反射的にアクセルを踏んだ。すれ違う一瞬、女の顔は、大輔のほうを向いていなかった。助手席の健太を、じっと見ていた。そして、小さくうなずいたように見えた。
バックミラーには、もう誰もいなかった。
そのとき、カーナビの画面がふっと暗くなり、勝手に再起動した。出てきたのは、見たことのない地図だった。何もない緑の中に、道が一本だけ伸びている。
しばらく走ると、幹が途中で大きく曲がり、根元に大きな岩のある木が、ライトの中を流れていった。数分後、同じ木が、また現れた。その次も、また。大輔は思わず車を止めた。
さっきから、同じ木を見てないか。健太の言葉を思い出した。時計は一時十七分だった。何時間も走っている気がするのに、十五分しかたっていなかった。
車内は、さっきよりずっと冷えこんでいた。八月なのに、大輔の吐く息が、白くくもった。
「……なあ、寒くないか」
隣を見た。健太は前を向いたまま、まばたきもせずに座っていた。
「別に」
健太が答えた。しゃべったのに、その口もとからは、白い息がまったく出ていなかった。
大輔は、それ以上、隣を見られなかった。
そのとき、車の後ろの闇から、足音が近づいてきた。カサッ、カサッ、カサッ。落ち葉を蹴って、誰かが走ってくる。その足音にまじって、かすかに、声が聞こえた気がした。
大輔は叫び声を上げて、アクセルを踏みこんだ。
「止まるなよ」
健太が、前を向いたまま言った。後ろを、一度も振り返らなかった。落ち着いた、低い声だった。
足音は、すぐに聞こえなくなった。曲がった木は、それきり現れなかった。
カーナビが、ふいに元に戻った。「現在地 河口湖駅付近」。やがて、街灯と自動販売機の明かりが見えた。大輔はコンビニの駐車場に車を止め、ハンドルに額をつけた。
「喉、渇いたな」
健太が言った。
「何か買ってくるか」
「いや、いい」
そのとき、大輔のスマホが震えた。電波が戻ったとたんだった。
健太からのメッセージだった。写真が一枚だけ。送られてきたのは、たった今だ。隣の健太は、スマホに触ってもいない。写真の撮影時刻は、午前一時四分。健太が車を降りていた時間だった。
夜の森の中から、フラッシュをたいて道路を写した写真だった。白く浮かび上がった路肩に、ライトを消した大輔の車が止まっている。運転席には大輔が座っている。そして、助手席の窓のすぐ外に、黒い人影が立って、車の中をのぞきこんでいた。人の形をしているのに、顔がなかった。
あのとき森の奥で光った、フラッシュのような白い光。あれは、健太のスマホだったのだ。健太は森の中から、車をのぞきこむそれを見て、写真を撮った。そして窓の外にいた何かは、あの光を見て、森の奥へ、健太のいるほうへ向かっていった。
「おい、これ……」
大輔は画面を、隣の健太に向けた。健太はちらりと見て、首をかしげた。
「さあ」
その声は、少しも怖がっていなかった。
「お前、スマホは?」
健太はポケットに手を入れて、「落としたかな」と言った。それきり、探そうともしなかった。
大輔は、もう何も聞けなかった。聞いてしまったら、隣に座っているものの答えを、知ってしまう気がした。
大輔はそのまま、健太を家の前まで送った。健太は一度も振り返らずに、玄関の中へ消えた。
次の日から、健太と連絡がつかなくなった。三日後に家を訪ねると、母親が青い顔で出てきた。
「あの夜、帰ってきたのは聞こえたの。でも朝には、もういなかった」
健太の部屋の布団は、泥と、濡れた落ち葉でいっぱいだったという。警察にも届けたが、手がかりは何もないらしかった。
「それにね、ゆうべ、あの子の番号から電話があったの。何もしゃべらないで、カサカサって音だけがして。それから、女の人の声で」
母親は、言いにくそうに続けた。
「『もう一人は?』って」
その夜も、大輔は眠れなかった。あの夜から、暗い部屋で目を閉じると、車のまわりを回るあの足音を思い出してしまう。だから明かりをつけたまま、窓に向かって座り、街灯に照らされた住宅街を眺めていた。人の住む町の明かりを見ていると、少しだけ落ち着けた。玄関は、背中の側にある。
廊下で、足音がした。カサッ。カサッ。足音は玄関のドアの前で止まって、ドアの向こうから、小さな声がした。
「もう一人は?」
健太の母親が電話で聞いたのと、同じ言葉だった。
もう一人、というのが誰のことか、大輔にはわかってしまった。あの夜、樹海に入ったのは二人だった。健太は、いなくなった。だとしたら、女が探している「もう一人」は、自分しかいない。
返事をしたら、ここにいると教えることになる。声を出したら、数えられてしまう。そんな気がして、大輔は答えなかった。震える手で口を押さえ、息を殺して、じっと窓を見ていた。外が暗いので、窓ガラスには、明かりのついた部屋と、座っている自分の姿が映っている。
その自分の背後に、白い服の女が立っていた。
ドアには鍵をかけてあった。それでも女は、部屋の中、大輔のすぐ後ろにいた。大輔は振り返れなかった。窓ガラスの中で、女はゆっくりと手を上げ、大輔の肩ごしに、窓の外を指さした。あそこへ来い、というように。
大輔は、映りこんだ部屋の向こう、ガラスの外を見た。さっきまで街灯に照らされていた住宅街が、どこにもなかった。家々の屋根があったはずの暗がりに、木々が並んでいた。苔むした岩と、途中で曲がった木。あの夜、樹海で何度も見た木だった。
その木の間に、健太が立っていた。あの夜と同じ服で、泥だらけで、何日も森の中にいたような顔をして、窓の中の大輔をまっすぐに見ていた。
健太は、声を出さずに口を動かした。
「に・げ・ろ」
部屋の電気が消えた。次に点いたとき、窓の外には、いつもの住宅街しかなかった。窓ガラスに映る大輔の背後にも、もう誰もいなかった。
健太の「に・げ・ろ」が、頭から離れなかった。あの夜、本当は何があったのか。翌日、大輔は、車のドライブレコーダーの映像を見た。車内も写すタイプで、エンジンを切っている間も録画が続く駐車監視の設定にしてあった。
午前一時二分、健太がドアを開けて出ていく。大輔が一人で、暗い車内に座っている。一時四分、画面が一瞬だけ真っ白に飛んだ。森の奥からの、あのフラッシュだった。その一瞬、助手席の窓のすぐ外に、車の中をのぞきこむ顔のない影が、白く浮かび上がった。画面の中の大輔は、こわばった顔で、前だけを見ている。
そして一時六分、助手席のドアが開いて、何かが乗りこんでくる。画面の中の大輔は、それに向かって「お前、どこにいた?」と話しかけている。
赤外線の白黒の映像の中で、助手席に座ったそれの顔のところだけが、墨で塗ったように黒かった。あの写真に写っていた、顔のない影と同じだった。
健太は、あの夜、森に入って、出てこなかったのだ。戻ってきたのは、健太ではなかった。大輔は、それを隣に乗せて樹海を抜け、健太の家まで送り届けた。それは健太の家に入り、健太の布団にもぐりこんで、朝には、森へ帰っていった。
健太は、今も見つかっていない。
あの夜、樹海には二人で入って、出てきたのは大輔一人だけだった。だからあの女は、今も聞いて回っている。
もう一人は、と。
あれから大輔は、一度も車に乗っていない。樹海にも、もちろん近づいていない。
けれど今朝、目を覚ますと、布団のまわりが泥だらけだった。玄関に脱いだはずのスニーカーが、枕もとにそろえて置いてあり、泥で黒く濡れていた。髪には、枯れた葉が一枚ついていた。
ゆうべ、自分がどこにいたのか。大輔には、思い出せない。
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青木ヶ原樹海(富士の樹海)の心霊スポット徹底解説
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

