※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
「本当にここでいいの? なんか市のホームページに、夜間は来るなって書いてあったけど」
美咲は懐中電灯を握りしめながら、隣を歩く友人の理沙に尋ねた。二人は大学のサークルで知り合って以来、心霊スポット巡りを趣味にしている。今回選んだのは、東京都八王子市にある八王子城跡だった。
「知ってる。近隣住民への迷惑になるからでしょ。でも私たちは静かに見るだけだし」
理沙は涼しい顔でそう答えたが、その声はいつもより少し早口だった。八王子城は戦国時代、北条氏照が築いた山城だ。天正十八年、豊臣方一万五千の軍勢に攻められ、わずか一日で落城したという。城主の氏照は小田原に出兵中で不在だった。残された将兵とその家族は、絶望的な籠城戦の末に、次々とこの地で命を落とした。
「御主殿の滝ってところに、女の人たちが飛び込んだんだよね」
美咲が呟く。理沙が頷いた。
「うん。落城が決まったとき、女性や子供たちが辱めを受けるくらいならって、次々と滝に身を投げたって話。三日三晩、川が血で赤く染まったらしいよ」
昼間にネットで調べた話を、美咲は今さらのように思い出していた。史跡公園として整備された道は、日中であれば穏やかな散策路にしか見えない。だが夜になると、木々の輪郭が異様に濃く沈み、石垣の隙間からは冷たい空気だけがゆっくりと這い出してくるように感じられた。
曳橋を渡り、御主殿跡の広場に出る。復元された石段の先に、滝の音がかすかに聞こえてきた。
「あそこだよね、滝」
理沙がスマートフォンのカメラを構える。夜景モードで何枚か撮ったが、いずれも真っ暗な画面が返ってくるだけだった。
「電池、大丈夫?」
「さっき満タンにしたばっかりなのに、もう半分切ってる」
二人は顔を見合わせた。それでも好奇心が勝り、滝へと続く小道を進んでいく。石段を降りるたび、気温が一段ずつ下がっていくのがはっきりとわかった。夏の夜だというのに、吐く息が白くなりそうなほどの冷たさだった。
「ねえ、聞こえる?」
美咲が足を止めた。滝の水音に混じって、何か別の音がしていた。
すすり泣くような、細く震える声。
「気のせいだよ、たぶん」
理沙はそう言いながらも、明らかに歩調を速めていた。滝の前に辿り着く。落差はそれほど大きくないが、暗闇の中で流れ落ちる水は、街灯の光を反射して奇妙に白く浮かび上がっていた。美咲はその水面をじっと見つめた。
一瞬、水の色が変わったように見えた。
透明な流れの中に、赤黒い筋が混じり込んでいる。
「理沙、今の見た?」
「何が」
「水の色……」
言い終える前に、すすり泣きがはっきりと大きくなった。一人ではない。何人もの女性の声が重なり合い、押し殺した嗚咽が、滝の周囲の空気を震わせていた。
理沙がカメラを構えたまま固まっている。
「シャッター、切れない」
「え?」
「押してるのに、反応しない」
美咲は自分のスマートフォンを取り出した。同じだった。画面には確かにカメラのアプリが起動しているのに、シャッターボタンだけが反応しない。まるで何かが、その瞬間を記録させまいとしているかのようだった。
そのとき、視界の端に何かが動いた。
滝のすぐ脇、石碑が立っている場所だった。白い着物をまとった人影が、ゆっくりとこちらへ顔を向けている。輪郭はぼんやりとしているのに、そこにいるという確信だけが異様にはっきりしていた。
「理沙……あれ」
理沙も見ていた。二人とも動けなかった。
人影はゆっくりと頭を垂れる。まるで何かを詫びているように、あるいは何かを訴えるように。その口が動いた気がした。声にはならない、しかし確かに意味を持った震えが、空気を通して二人の耳に届いた。
――助けて。
美咲の膝から力が抜けそうになった。
「帰ろう」
理沙が美咲の腕を掴み、来た道を引き返し始める。
曳橋を渡り切り、駐車場に戻る頃には、二人とも息が上がっていた。車に乗り込む直前、理沙がスマートフォンを取り出した。
「さっき、シャッター切れなかったやつ……もう一回試してみる」
暗い車内で、理沙が城跡の方向にカメラを向けた。今度はシャッターが切れた。表示された画像を見て、理沙の指が止まった。
木々の合間、ちょうど滝へと続く小道のあたりに、白い靄が浮かんでいた。輪郭はぼんやりとしているのに、そこだけ妙にはっきりと、人の顔のような陰影が浮かび上がっている。目のあたりに見える二つの窪み、口のように見える裂け目。
「消して」
美咲が言うと、理沙は震える指で画像を削除した。だが、削除したはずのその夜、美咲のスマートフォンのカメラロールに、見覚えのない画像が一枚増えていた。同じ靄。同じ場所。ただし、今度は先ほどよりも、輪郭が近くにあった。
車に乗り込み、エンジンをかける。ライトが照らす道には何もいない。それでも、後部座席を振り返る勇気は、どちらにもなかった。
その夜、美咲は自宅のベッドで、身体が動かなくなる感覚に襲われた。目は開いているのに、指一本動かせない。天井の隅に、白い着物の女がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。声にならない悲鳴を上げようとしたところで、ようやく金縛りが解けた。
翌朝、理沙に電話をかけた。
「昨日の夜、金縛りにあった……」
「私も」
理沙の声は震えていた。
「しかも、あの画像、消したはずなのにまだスマホに残ってるの。しかも、増えてる」
美咲は何も言えなかった。自分のカメラロールを確認する勇気は、まだなかった。
しかし、その週末に理沙から連絡はなかった。何度かけても繋がらない。心配になった美咲がアパートを訪ねると、理沙の母親が困った顔で出てきた。
「あの子、急に実家に帰るって言い出して……様子がおかしかったのよ。うわごとみたいに『見てる』『まだ写ってる』ってずっと呟いてて」
それから数年が経った今も、美咲は八王子城跡の話題を避けている。理沙とは、あの日以来一度も連絡を取っていない。そして今でも時折、スマートフォンのカメラロールを開くたび、あの白い靄の写真が、まだそこに残っているのではないかという不安を拭えずにいる。
この物語の舞台となった八王子城跡の心霊スポット情報、その歴史と真相はこちら。
八王子城跡の心霊スポット徹底解説
※この物語はフィクションです

