朝いちばんの水道の水が、うっすら赤い。
最初は、古いアパートの水道管が錆びているせいだと思った。築四十年の木造二階建てで、引っ越してきたときに大家さんからも「最初の水は少し流してから使ってね」と言われていた。だから美咲は気にしなかった。八王子城跡から帰ってきた、次の朝のことだった。
その秋、二人で八王子城跡へ行こうと言い出したのは、千夏だった。
「夜に行くのはだめなんだって。市のサイトに書いてあった。だから夕方、暗くなる前にちょっと見るだけ」
大学のサークルで知り合ってから五年。心霊スポットと呼ばれる場所に二人で出かけるのは初めてではなかったが、千夏はいつも、行く前にその土地の歴史を調べてくる。今回も、ガイダンス施設でもらったパンフレットを読み上げながら車を降りた。
八王子城は戦国時代、北条氏照が築いた山城だ。天正十八年、豊臣方の大軍に攻められ、わずか一日で落ちた。城主の氏照は小田原に出ていて不在で、城に残された将兵と、その家族の多くがこの山で命を落としたという。
「御主殿の滝ってところでね、落城を悟った女の人たちが、次々に身を投げたんだって。それで川の水が、三日三晩、赤く染まったって言われてる」
「三日三晩」
「そう。三日三晩」
駐車場に着いたのは四時過ぎだった。曳橋を渡り、復元された石段を上って、御主殿跡の広場に出る。散策の人はもうほとんどいなかった。そこから滝へは、さらに石段を下りていく。一段下りるごとに、肌に触れる空気が冷たくなった。十月の半ばとは思えなかった。
滝は思っていたより小さかった。苔むした岩のあいだを、細い水が白く落ちている。脇に小さな石碑があり、誰かが供えた花が、まだ新しかった。
二人とも、しばらく黙っていた。千夏が石碑に向かって手を合わせ、美咲もそれに倣った。
目を開けたあと、美咲はなんとなく、滝つぼの縁にしゃがんで水に指を浸した。驚くほど冷たかった。指のあいだを抜けていく水が、一瞬、赤茶色に濁ったように見えた。夕日が差したのだろう、と思った。
「ちょっと、触らないほうがいいよ」
千夏が言った。いつもより低い声だった。美咲は「ごめん」と言って手を拭いた。
日が落ちる前に駐車場へ戻った。何も起きなかった。帰りのサービスエリアで夕飯を食べ、夜には家に着いた。
そして次の朝、水道の水が赤かった。
蛇口から出る最初のひと筋が、薄い紅茶のような色をしていた。しばらく流すと透明になった。美咲はそれで顔を洗い、歯を磨き、仕事に出かけた。
二日目の夜、シャワーを浴びていると、足元を流れていく湯が、また色づいていることに気づいた。今度は、紅茶の色ではなかった。もっと濃くて、もっと赤い。鉄のような匂いが、湯気に混じっていた。
慌ててシャワーを止めると、排水口のまわりに、黒いものが絡まっていた。
髪の毛だった。
長い、濡れた黒髪が、何十本も、何百本も、排水口の蓋に巻きついて盛り上がっていた。指でつまむと、ずるずると、いくらでも出てきた。肩までもない。腰よりも長い。
美咲の髪は、夏に切ったばかりで、耳の下までしかない。
その夜は、髪の束をビニール袋に入れて口を固く縛り、玄関の外に出した。眠れなかった。目を閉じると、水の流れる音がした。どこかで蛇口が開いているのかと何度も起きて確かめたが、どの蛇口も閉まっていた。それでも音は止まなかった。細く、白く、上から下へ落ちていく水の音。
三日目の夕方、千夏から電話があった。
「美咲。お風呂、入った?」
挨拶もなく、千夏はそう言った。声が震えていた。
「……まだ。なんで」
「うちのお湯、赤いの。昨日から。それで、排水口に」
千夏はそこで言葉を切った。電話の向こうで、水の音がしていた。シャワーではなかった。もっと遠くて、もっと高いところから落ちてくる音。
「千夏、今どこにいるの」
「家。お風呂場」
「なんでお風呂場にいるの」
返事はなかった。水の音だけが、ずっと続いていた。その奥で、誰かが泣いているような声がした。一人ではなかった。何人もの女の声が、水の音の下で、押し殺したようにすすり泣いていた。
通話が切れた。かけ直しても、千夏は出なかった。
美咲はその夜、風呂場の戸を閉めたまま、一度も開けなかった。台所の水道も使わなかった。コンビニで買った水で歯を磨き、電気をつけたまま布団に入った。
夜中、目が覚めた。
風呂場から、水の音がしていた。湯船に、湯がたまっていく音だった。蛇口は閉めてあるはずだった。
音は長く続いて、やがて止まった。
静かになった風呂場の中で、ちゃぷん、と、湯船の水面が揺れる音がした。誰かが、ゆっくりと湯の中に身を沈めていくような音だった。
美咲は布団の中で、朝まで動けなかった。
朝になって、風呂場の戸を開けた。湯船は空だった。乾いていた。ただ、浴槽の底に、長い黒髪が一本だけ、濡れたまま張りついていた。
八王子から帰ってきて、今日で四日目になる。千夏とは、まだ連絡が取れない。
伝承では、川が赤く染まったのは三日三晩だったという。
四日目に何があったのかは、どこにも書かれていない。
この物語の舞台となった八王子城跡の歴史と、心霊スポットと呼ばれる理由はこちら。
八王子城跡の心霊スポット徹底解説
※この物語はフィクションです。実在の場所や伝承を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。

