※この物語はフィクションです。実在の場所を題材にしていますが、登場人物・出来事はすべて架空のものです。
弟の陽介が姿を消したのは、真希が十二歳、陽介が七歳の夏だった。祖父母の家がある山里で毎年恒例の夏祭りが開かれていたその日、境内の外れで露店の壺売りを眺めていたはずの陽介が、いつの間にかいなくなっていた。
その日、真希は友人たちと金魚すくいの屋台に夢中になっていた。ふと気づくと、少し離れた場所で壺を覗き込んでいた陽介の姿が視界の端にあった。ほんの数分、目を離しただけだった。金魚すくいを終えて振り返った時には、もう陽介の姿はどこにもなかった。
最初は、はぐれただけだと誰もが思っていた。祭りの人混みの中で迷子になるのは珍しいことではない。しかし、日が完全に暮れても陽介は戻らず、次第に大人たちの表情も強張っていった。
大人たちは総出で山を探した。警察も呼ばれ、消防団まで出動する大掛かりな捜索が三日間続いたが、陽介はどこにも見つからなかった。近隣の川も、崖も、洞窟も、考えられる場所はすべて調べ尽くされたが、痕跡一つ見つからなかった。真希は当時、両親から「あなたのせいじゃない」と何度も言われたが、その言葉は逆に、自分がどこかで責められているような気持ちにさせた。
「神隠しだ」
村の年配者たちは、そう口にした。この山は昔から神域とされていて、時折、人が理由もなく消えることがあるのだと。古くからこの山には、うっかり立ち入ってはいけない場所があるという言い伝えがあり、子供たちは幼い頃からそれを教えられて育つのが習わしだった。真希の両親はそんな迷信を信じなかったが、警察の捜索にも限界があり、やがて陽介の捜索は打ち切られ、時間だけが過ぎていった。
真希はその後、大学進学を機に東京へ出た。就職し、忙しい日々を送るうちに、陽介のことを思い出す頻度も少しずつ減っていった。それでも、毎年夏になると、あの日の記憶が鮮明に蘇る。壺売りの前で振り返った時、そこにいたはずの陽介の姿が、跡形もなく消えていたあの瞬間。
陽介が消えてから十五年が経った、ある夏の夕方。真希のスマートフォンに、見知らぬ番号から着信があった。
「もしもし……真希、姉ちゃん?」
声を聞いた瞬間、真希は息が止まった。二十二歳になっているはずの弟の声には、まだあの日のままの、あどけなさが残っていた。
「陽介なの……?」
「うん。今、実家の近くにいるんだ。迎えに来てもらえる?」
真希は震える手で祖父母の家に電話をかけ、状況を伝えた。両親と共に、真希は久しぶりにあの山里へと向かった。車を走らせる間、真希の頭の中には様々な想像が渦巻いていた。もし本当に陽介が戻ってきたのだとしたら、この十五年、どこでどう過ごしていたのだろう。両親は運転しながら終始無言だった。喜びよりも、現実を受け止めきれない戸惑いの方が大きいようだった。
夏祭りの提灯が並ぶ、あの神社の境内に、陽介は一人で立っていた。七歳の時の面影を残しながらも、外見はきちんと成長した青年の姿をしていた。着ている服は妙にくすんだ色合いで、どこか時代がかった雰囲気を漂わせていた。
再会した家族は涙を流しながら陽介を抱きしめたが、陽介本人は、どこか他人事のような、落ち着き払った様子を見せていた。抱きしめる母親の腕の中で、陽介はただ静かに立っているだけで、涙を流すこともなかった。
「今まで、どこにいたの」真希は震える声で尋ねた。
陽介はしばらく黙り込んだ後、ぽつりと答えた。
「山の向こう側。景色はほとんど同じなんだけど、少しだけ違う場所。誰かが、色々なことを教えてくれた。空を飛んで、遠くの景色をたくさん見せてもらったよ」
「誰かって、誰なの」
「分からない。顔は、はっきり見えなかったから。でも、優しかったよ。怖い思いはしなかった」
その言葉を、家族の誰も本気で信じることはできなかった。しかし陽介は、実際に訪れたことのないはずの土地の風景や、地元の人しか知らないような細かな地形の変化を、驚くほど正確に語ってみせた。たとえば、数年前に建て替えられたはずの隣町の神社の、建て替え前の姿を詳細に描写したり、真希たちも忘れかけていた、祖父母の家の裏にあった古い井戸の位置を正確に言い当てたりした。両親は困惑しながらも、それ以上追及することができなかった。
陽介は数日間、実家で過ごした後、再びどこかへ姿を消した。今度は誰にも気づかれることなく、ただ静かに、いなくなった。書き置きも、荷物の乱れもなかった。まるで最初からそこにいなかったかのように、陽介の気配だけが、家の中から消えていた。滞在していた数日間、陽介はほとんど眠らず、家族との会話も最小限だった。まるでこの世界に、心のどこかがまだ馴染みきっていないような、そんな違和感を家族全員が感じていた。
警察に届け出たものの、防犯カメラにも足取りは一切残っていなかった。真希は半狂乱になって山を探し回ったが、結局、陽介は二度と見つからなかった。あの十五年間の空白が何だったのか、そして再び姿を消した先に何があるのか、誰にも分からないままだった。
それから数年が経った今も、真希は毎年夏になると、あの神社を訪れている。境内に立ち、あの日壺売りがいた場所をじっと見つめる。もう一度、陽介がふらりと戻ってくるのではないかという、根拠のない期待を捨てきれずにいるからだ。
村の古老に聞いたところによると、神隠しに遭った者は、一度この世に戻っても、また同じように消えることがあるのだという。そして、それを繰り返すうちに、次第に人間としての輪郭が薄れていき、いずれは完全にあちら側の存在になってしまうのだと。古老はそう語りながら、真希の目をまっすぐに見つめ、「あんたも、あまり長くあの境内に立ち尽くさない方がいい」と付け加えた。真希はその忠告の意味を深く尋ねることができなかった。ただ、その言葉が持つ不気味な重みだけが、いつまでも胸の奥に残り続けた。真希はその話を信じたくはなかったが、あの日の陽介の、どこか焦点の合わない目を思い出すたび、その言い伝えが真実であるように思えてならなかった。
今年の夏も、真希は神社の境内に立っている。日が傾き始め、夏祭りの提灯に明かりが灯り始めた頃、真希はふと、遠くの人混みの中に、見覚えのある背格好の青年の姿を見た気がした。真希は思わず駆け出したが、人波をかき分けてたどり着いた場所には、誰もいなかった。
真希は、それでも毎年ここに通い続けるだろうと自分で分かっている。誰かに「もう諦めた方がいい」と言われるたびに、心のどこかで反発する自分がいる。あの日、金魚すくいに夢中になって目を離した数分間が、今でも真希を縛り付けている。もしあの時、目を離さなかったら。もしあの時、すぐに壺売りの方を振り返っていたら——考えても仕方のない「もしも」を、真希は今も繰り返し思い浮かべてしまう。
提灯の明かりが夜風に揺れる中、真希は境内の隅にひっそりと佇む古い壺を見つめた。それは、あの日陽介が覗き込んでいた壺と、よく似た形をしていた。真希はゆっくりとその壺に近づき、恐る恐る中を覗き込んでみたが、そこにはただ、暗闇が広がっているだけだった。
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この都市伝説の起源や真相が気になった方は、解説記事もあわせてご覧ください。
※この物語はフィクションです。

